HISTORICAL PERSON · 1969年没

ヴァルター・グロピウス

モダニズムを代表するドイツの建築家。近代建築の四大巨匠の一人で、1919年から初代校長としてバウハウスを率いた。鉄とガラスの工場建築も手がけた。

生涯
1969年没
死亡地
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州 / ボストン)
出生地
ドイツ連邦共和国(ベルリン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州)

伝記

ヴァルター・アードルフ・ゲオルク・グロピウスは、1883年5月18日にベルリンで生まれたドイツの建築家で、ル・コルビュジエ、ライト、ミース・ファン・デル・ローエとともに近代建築の四大巨匠の一人とされる。バウハウスの創立者であり、1919年から1928年まで初代校長を務めた。父は同名のヴァルター・アードルフ、母はマノン・アウグステ・パウリーネといい、三番目の子として生まれた。カール・フリードリヒ・シンケルの弟子であった建築家マルティン・グロピウスは大叔父にあたる。1903年から1907年にかけてミュンヘンとベルリンの工科大学で建築を学んだ。卒業後の1908年にペーター・ベーレンスの事務所に入り、そこでミース・ファン・デル・ローエやル・コルビュジエと同僚になり、ドイツ工作連盟にも参加した。1910年にベーレンスの事務所を離れ、同僚だったアドルフ・マイヤーとベルリンに事務所を構えた。二人が1911年に手がけた『ファグス靴型工場』は、鉄とガラスを用いた初期のモダニズム建築で、とくにガラスのカーテンウォールで、形態は機能を反映するという原則と、労働者に健康的な環境を与えたいという彼の関心を示し、のちのバウハウス校舎を思わせる。1914年のケルンの工作連盟展では、事務所と工場の建物も設計した。

第一次世界大戦が始まると召集され、西部戦線で曹長、のちに通信部隊の中尉を務め、負傷して死にかけたこともあった。鉄十字章を二度授与されている。1915年には、作曲家グスタフ・マーラーの未亡人アルマ・マーラーと結婚し、翌1916年に娘マノンが生まれた。マノンは1935年に18歳でポリオで亡くなり、作曲家アルバン・ベルクは彼女の思い出にヴァイオリン協奏曲を書いた。二人は離婚し、1923年に、イーゼ・フランクと再婚した。1918年のドイツ革命の後は芸術労働評議会に加わった。ベルギー国籍のため職を退くことになったアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの推薦で、ヴァイマルの工芸学校を託され、1919年に国立バウハウスを開校して初代校長となった。当初は総合芸術としての建築教育を目指したが、画家カンディンスキーらの前衛的な造形教育の場にもなった。『ヴァイマル・バウハウス校長室のインテリア』(1923年)は、モダンデザインで統一された空間として、記念碑的な作品とされる。

1925年にバウハウスはデッサウに移り、デッサウ市立バウハウスとなった。1926年の『デッサウの校舎』は彼の設計で、著書『国際建築』(1925年)とともにモダニズム建築の代表作として世界に知られた。デッサウ市の依頼で郊外に集合住宅も建て、1928年にハンネス・マイヤーを後任に指名して校長を退いた。その後ベルリンに事務所を構えて集合住宅などを設計したが、1932年に弟子の山口文象とともにドイツを脱出し、1934年にイギリスへ亡命した。1937年にはハーバード大学に招かれてアメリカに移住し、教授としてI・M・ペイやフィリップ・ジョンソンらを育てた。共同設計事務所TACを設立し、超高層のパンナムビル(1958年)などを設計した。戦後はドイツでも設計に再び参画し、1952年にはベルリンのハンザ地区の国際建築展に参加し、1960年代には大規模な集合住宅地グロピウス・シュタットを設計した。1959年にアメリカ建築家協会のゴールドメダル、1961年にアルバート・メダルを受けた。1969年7月5日、マサチューセッツ州ケンブリッジで86歳で亡くなった。

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