伝記
己婁王は、朝鮮三国のひとつ百済の第3代の王である。在位は77年から128年。先代の多婁王の嫡男で、33年に太子となり、77年9月に先王が死去したのを受けて即位した。諱や諡は伝わっていない。『三国史記』は、その人物を知識が広く、志が高くて細かなことにこだわらなかったと記している。子には、のちに第4代の王となる蓋婁王がいる。蓋婁王は王となる前は扶余蓋婁と呼ばれ、166年に没した。ほかに扶余質という子がいたともされるが、この点には異論がある。
治世の詳しい事情はあまり知られていない。対外関係では、85年の正月に兵を送って新羅の辺境を攻めたのが初期の動きである。ところが後には新羅との和親策に転じた。105年には新羅へ使者を送って和睦を求め、113年にも使者を派遣して新羅を訪ねさせた。この転換は、両国にとって北辺にいる靺鞨に対抗する必要があったためと思われている。以後、百済と新羅は平和な関係にあったとされる。
125年に靺鞨が新羅に侵攻すると、新羅は書状で百済に出兵を求めた。己婁王は5人の将軍に兵を率いさせて救援に向かわせ、靺鞨の兵を退かせた。この出来事は『三国史記』の百済本紀と新羅本紀の両方で確認できる。また、東側に敵がいなかったことから高句麗と結び、122年には1万の兵を玄菟郡へ送ったという。靺鞨は108年7月にも百済の牛谷城を襲い、略奪したうえで人々を連れ去っている。
在位中は天災や異変の記録が目立つ。89年6月には地震で民家が壊れて沈み、多くの人が死んだ。90年春には大旱魃で麦が育たず、夏6月には強風で木が根こそぎ倒れた。87年と92年には日食があり、93年8月には五つの大岩が山の頂から同時に落ちた。97年夏には漢江に二頭の竜が現れ、99年秋には霜で豆が枯れ、冬には雨と雹が降った。108年は春から夏にかけて旱魃となり、人々が人を食うほどの飢饉になったと記される。111年には地震が二度あり、116年には都の門の上に鶴が巣を作り、6月に10日も雨が続いて漢江があふれ、民家が壊れた。王は秋7月に、水害を受けた田を役人に整えさせている。103年には、王が漢山に狩りに出て不思議な鹿を射止めたとも伝わる。
128年11月、己婁王は在位52年で死去した。『三国遺事』は統治期間を55年とし、うち1年は数え方の違いによるもので、『三国史記』より実質2年長い記述になっている。
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- ユウェナリス (128年没)
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