伝記
ヴラド3世は、15世紀のワラキア公国の君主で、通称をドラキュラ公、または串刺し公という。日本ではヴラド・ツェペシュと呼ばれることが多いが、ツェペシュは姓ではなく「串刺しにする者」を意味するルーマニア語の異名で、名は単にヴラドである。1431年(1430年説もある)にトランシルヴァニア地方のシギショアラで、バサラブ朝ドラクレシュティ家の祖ヴラド2世の次男として生まれた。父は神聖ローマ皇帝ジギスムントからドラゴン騎士団の団員に叙されたためドラクル(竜公)と呼ばれ、ドラキュラの名は「ドラクルの子」を意味する。1436年に父がワラキア公となったが、1444年のヴァルナの戦いで諸侯連合軍がオスマン帝国に敗れると、ワラキアは臣従を余儀なくされた。ヴラド3世は、父がオスマン帝国に呼び出された際に弟のラドゥ美男公とともに抑留され、実質的な人質となった。
1447年に父と兄ミルチャが暗殺されると、フニャディ・ヤーノシュはダネシュティ家のヴラディスラフ2世を公に据えた。ヴラド3世はオスマン帝国の支援でこれを排して公位に就いたが、2カ月で奪い返され、母方の伯父ボグダン2世が治めるモルダヴィア公国へ亡命した。伯父が暗殺された1451年には、従弟のシュテファンとともにトランシルヴァニアへ逃れてフニャディを頼った。1456年、オスマン帝国に妥協的となったヴラディスラフ2世をフニャディが疎んだため、その支援でヴラド3世は再び公位に就いた。ハンガリーと対オスマン同盟を結ぶ一方で、貢納金6000ドゥカートの支払いに応じ、スルタン・メフメト2世から君公と認められた。1459年には大貴族を粛清して権力を握り、公の直轄軍を編成して中央集権化を進めた。1460年には、公位を狙って侵攻したヴラディスラフ2世の子ダン3世を破り、捕らえたダン3世に自分の死刑宣言文を読ませ、墓穴を掘らせたうえで斬首したと伝えられる。
貢納金が1万ドゥカートに引き上げられると、ヴラドはこれを拒み、要求に来たオスマン帝国の使者を串刺し刑にした。メフメト2世は大軍で何度か侵攻したが、兵力に劣るヴラドはゲリラ戦と焦土作戦で撃退した。1462年のトゥルゴヴィシュテの戦いでは、スルタンの首を狙った夜襲を仕掛けたが、イェニチェリの抵抗に阻まれた。入城したメフメト2世は、串刺しにされた大量のオスマン兵の林を見て戦意を失い、陣中の疫病もあって撤退したという。しかし同年、オスマン帝国が支援するラドゥ美男公と、戦争に倦んだ貴族たちによってヴラドは追われ、トランシルヴァニアへ落ちのびた。ハンガリー王マーチャーシュ1世は、オスマン帝国に協力したという罪状でヴラドを捕らえ、12年にわたり幽閉した。この間にカトリックに改宗し、王の妹と結婚したが、正教徒の多い民衆の人心は失われた。
1474年に釈放され、1476年にはトランシルヴァニア軍を率いてワラキアに進軍し、三度目の公位に就いた。しかし連合軍の大半はまもなく帰還し、手元にはモルダヴィア兵200人ほどしか残らなかった。同年(1477年説もある)、現在のブカレスト近郊でオスマン帝国軍と戦って戦死した。死には不明な点が多く、敵対するワラキア貴族による暗殺説もある。オスマン軍はその首を塩漬けにしてコンスタンティノープルへ持ち帰ったとされ、遺体はスナゴヴの修道院に葬られたと伝わる。今日の異常者というイメージには、マーチャーシュ王がヴラドの悪行を誇張して書かせたパンフレットの影響が大きいとされ、その名は小説『吸血鬼ドラキュラ』の伯爵のモデルの一人としても知られる。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン2世 (アランソン公) (1476年没)
- アニェス・ド・ブルゴーニュ (1407-1476) (1476年没)
- ピエトロ・モチェニーゴ (1476年)
- レギオモンタヌス (1476年没)
- ギオルギ8世 (ジョージア王) (1476年没)
同じ地域に関係する人物
- トマ・カラギウ (1977年没)
- シュテファン・ルキアン (1916年没)
- ニコラエ・マルティネスク (2013年没)
- ハリア・スタンク (1974年没)
- グリゴラシュ・ディニク (1949年没)