伝記
リーゼ・マイトナーは、1878年11月7日にウィーンのユダヤ系の家庭に、弁護士の父フィリップとピアニストの母ヘートヴィヒの三女として生まれたオーストリア出身の物理学者である。男児3人、女児5人という大家族で、生活は貧しくはないが裕福でもなかった。一家は音楽に親しみ、父は政治にも深くかかわって、政治家や作家をしばしば自宅に招いた。こうした知的な環境で育ったリーゼは自然科学に興味を持ったが、当時は女性が学問を修める道は閉ざされていた。高等小学校を1892年に卒業した後、大学教育の不要な専門職として、フランス語の教師の試験を受けて収入を得た。
1897年、文学・科学分野に限り、資格試験に合格すれば女性が大学に入学できるようになった。両親は彼女の決断を支持し、彼女は1899年まで教師を続けながら、2年間で8年分の学習をこなして、1901年に試験に合格した。23歳でウィーン大学に入り、とりわけルートヴィッヒ・ボルツマンの熱意あふれる講義に魅了された。1906年に博士号の試験に合格し、ウィーン大学で4人目、物理では2人目の女性博士となった。放射能の分野に関心を持ち、先人の女性研究者がほとんどいないウィーンでの将来に不安を覚えて、1907年秋、「ほんの何学期かの間ベルリンで学ぶため」ベルリンへ向かった。
ベルリンでは、マックス・プランクが聴講を認め、自宅にも招いてくれた。研究する場所を探していたところ、化学者オットー・ハーンが共同研究を求めていると聞かされ、1907年9月28日に初めて彼と会った。ハーンの上司エミール・フィッシャーは女性が研究所に入ることを許さなかったため、2人の共同研究は、マイトナーが地下の木工作業所だけで実験をし、研究所内には姿を見せないという条件で認められた。彼女は木工作業所で1912年までハーンと研究を続け、物理と化学の知識を補い合って放射線の研究に成果をあげた。1912年にカイザー・ヴィルヘルム研究所が開設されると、プランクの助手に任命されて、32歳で初めて収入を得た。第一次世界大戦中の1915年には、オーストリア軍のX線技師として志願し、ポーランドの戦地で負傷者の治療に当たった。1916年10月に研究所へ戻り、1918年に新元素プロトアクチニウムを発見した。同年には研究所の核物理部を任され、1922年にはベルリン大学の教授となった。
1933年にヒトラーが政権を取ると、マイトナーは9月に教授職を解かれたが、オーストリア人であることなどからドイツに残った。1934年、フェルミの論文に興味を持ち、ハーンとフリッツ・シュトラスマンとの共同研究を始めた。ところが1938年にオーストリアがドイツに併合されると、彼女はナチスの影響を直接受けることになり、研究所を辞めるべきだという見解を、ハーンから聞かされた。5月に亡命を考え、ボーアやフランクらから誘いを受けたが、パスポートの問題で出国を禁じられた。オランダのディルク・コスターらの助けを得て、7月に休暇旅行との名目でドイツを立ち、8月にスウェーデンへ移った。脱出の列車内で国境警備隊に期限切れのパスポートを検分された時は、生きた心地がしなかったと後に語っている。その後は主にストックホルムで研究を続けた。核分裂の発見に大きく貢献し、「核分裂」という言葉を最初に使った人物とされる。1968年10月27日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- レオ・セクストン (1968年没)
- スラポン・ソムバッチャルーン (1968年没)
- ヴァシリー・アジャーエフ (1968年没)
- ヒアツィント・シュトラハヴィッツ (1968年没)
- レオ・ヒューバーマン (1968年没)
同じ地域に関係する人物
- Fenton John Anthony Hort (1892年没)
- モーリス・ドッブ (1976年没)
- ハロルド・ジェフリーズ (1989年没)
- ドナルド・ニコル (2003年没)
- ジョン・ヘンリー・コーツ (2022年没)