伝記
コンスタンチン・ゲオルギエヴィチ・パウストフスキーは、1892年5月31日(ユリウス暦では5月19日)にロシア帝国のモスクワで生まれ、1968年7月14日に没したソビエト連邦の作家である。その清らかで気高い文体は、現代ロシア語の第一級の名文とされる。代表作に自伝的な大河小説『生涯の物語』がある。最晩年の1965年から1968年には、4年続けてノーベル文学賞の候補に選ばれた。
父ゲオルギーは鉄道の統計技師で、父方の祖父はザポロージャ・コサックの出のウクライナ人、祖母はトルコ人、母マリヤはチェルカースィのポーランド人家庭の出身だった。そのためパウストフスキーは、ウクライナ人、ポーランド人、トルコ人の3つの民族的な出自を持つ。一家は父の仕事のためモスクワからヴィリニュス、プスコフと移り、1898年にキエフに住み着いた。1904年にキエフの名門ギムナジウムに入学し、同級生のミハイル・ブルガーコフと知り合った。第6学年の秋に父が家を出て家計が苦しくなったが、家庭教師をして働きながら卒業した。1912年の卒業直前に、父は他界した。
キエフ大学で学んだ後、1914年の第一次世界大戦の勃発を受けて、母たちの住むモスクワに移り、モスクワ大学の法学部に編入した。しかし労働力不足を支えるために中退し、路面電車の車掌として働き、病院列車の衛生兵に志願した。落馬事故で全身を強く打ったため復員を許されたが、そのとき二人の兄はすでに戦死していた。その後は南へ行き、冶金工場やボイラー工場で働き、アゾフ海の漁船にも乗った。1916年の晩秋にモスクワへ戻って新聞記者になり、二月革命と十月革命を目撃した。ロシア内戦のとき、ウクライナに移り、オデッサでは2年間、新聞社に勤め、イリヤ・イリフやエフゲニー・ペトロフ、イサーク・バーベリと親交を結んだ。さらにクリミア半島やカフカースの各都市、ペルシア北部まで足を運び、地元紙でも働いた。
1923年に再びモスクワへ戻り、新聞社に勤めた後、1930年ごろからは各地の取材に回り、随筆を多く発表した。1925年に処女出版作『海のスケッチ』を発表した。1932年にカスピ海を舞台にした『カラ・ブガス』、1934年にカフカースを舞台にした『コルヒーダ』を、1936年にはアレクサンドル・グリーンを描いた『黒海』を発表し、いずれも高く評価されて、作家としての名声を確かなものにした。約7年をかけて完成した最初の長編『ロマンチストたち』は、1935年に刊行されて激賞された。初期は南方の海を舞台にした異国情緒あふれる作品が目立ったが、やがてロシア中部や北部の自然美も見いだし、『北の物語』『メシチョーラ地方』などに結実した。『イサーク・レヴィターン』や『オレスト・キプレンスキー』など、芸術家の生涯を描いた作品も多い。
独ソ戦が始まると戦場記者として南方戦線を転々とし、のちアルマ・アタに疎開して、反ファシズムの戯曲『心臓が止まらぬうちに』などを書いた。戦後の1948年に『森林物語』を発表した。1945年から自伝的な『生涯の物語』を書き始め、1963年までに全6部が完成した。1955年以降はタルーサに居を構えた。「雪どけ」の時代から晩年にかけては、他の作家を共産党の批判から守ることに努め、編集した選集『タルーサのページ』(1961年)は発禁処分を受けた。1960年代には、ソルジェニーツィンを支援する嘆願書に署名し、検閲の廃止も要求した。長年、喘息を患い、モスクワの病院で亡くなって、遺骸はタルーサに葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- アベル・ボナール (1968年没)
- エドナ・ファーバー (1968年没)
- チャールズ・ベーコン (1968年没)
- ルドヴィコ・スカルフィオッティ (1968年没)
- トゥリオ・セラフィン (1968年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィクトル・ドラグンスキー (1972年没)
- スチェパン・ラージン (1671年没)
- レフ・ヴィゴツキー (1934年没)
- Nikolay Bogolyubov (1980年没)
- Vyacheslav Lemeshev (1996年没)