HISTORICAL PERSON · 1968年没

ロバート・ケネディ

米国の政治家。兄ジョンの政権で司法長官を務め、組織犯罪の追及に尽力した。上院議員となり、大統領候補指名選挙の運動中に暗殺された。

生涯
1968年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ロサンゼルス)
出生地
アメリカ合衆国(ブルックライン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ロバート・フランシス・ケネディは、1925年11月20日にマサチューセッツ州ブルックラインで、ジョセフ・P・ケネディとローズ夫妻の7番目の子として生まれた。のちのジョン・F・ケネディ大統領の実弟で、愛称はボビーである。ハーバード大学に入学し、海軍に従事したのち、1948年に卒業した。成績は最高ではなく、ハーバードのロースクールには入れず、1951年6月にヴァージニア大学のロースクールで法学士を得た。1952年11月には、兄ジョンの上院議員選挙戦のマネージャーを務めている。

その後、赤狩りの拠点となったジョセフ・マッカーシー上院議員の小委員会で下級法律顧問を務め、続いて上院の労働搾取問題を調査するマクレラン委員会の法律顧問となった。1956年以降は、マフィアとの癒着が疑われたチームスター組合の幹部ジミー・ホッファを公聴会で追及して、名を知られた。1959年に兄が大統領選挙への出馬を決めると、これを支援するため委員会を辞した。1961年1月、大統領となった兄は、ロバートを司法長官に指名した。

司法長官としては、組織犯罪の撲滅に尽力し、大労働組合などの不正を徹底的に追及した。マフィアとの関係を躊躇しなかった父や兄と違い、ロバートはマフィアを「アメリカの内なる敵」と見て、司法省に特別班を結成した。1961年4月には、ボスのカルロス・マルセロを強制逮捕して国外追放とし、ホッファを背任横領で起訴した。陪審員の意見が分かれてホッファが放免になると、買収工作や脅迫を突き止めて再び起訴し、刑務所送りにしている。父の忠告にも耳を貸さず、数多くの敵を作ったという。FBI長官フーヴァーが直接大統領に接近する権利も、ロバートが剥奪して自分に報告させたため、フーヴァーを激怒させたという。1961年4月のピッグス湾事件や1962年10月のキューバ危機にも、兄とともに対処した。

人種問題にも積極的に関与した。1962年のミシシッピ大学の事件では、州知事や大学当局者の説得にあたり、1963年にアラバマ大学へ黒人学生2人が入学する問題では、州知事ジョージ・ウォレスに電話で妨害しないよう説得し、あくまでも拒むウォレスを「それでもあなたはアメリカの市民か」と怒鳴りつけた。1963年11月に兄が暗殺されたとき、報道担当秘書に「やられるのは私だと思っていた」と語った。後継のジョンソン大統領とは良好な関係ではなかったが、司法長官には留任した。のちに副大統領の立候補が望めないと知り、ニューヨーク州の上院議員選挙に出るため辞任した。共和党現職を破って、1964年11月に当選している。

上院議員としては、貧困の撲滅や人種問題に取り組み、南アフリカを訪れ、ミシシッピ・デルタを調査した。兄が推し進めた軍事顧問団の増員とは一転して、ベトナム戦争の段階的拡大の停止を主張した。1968年3月16日に大統領選への出馬を表明すると、2週間後にジョンソンは再指名を求めないと発表した。キング牧師が暗殺された4月4日には、インディアナポリスの黒人街で警察の警告を制して演説し、自らの家族も白人の手で殺されたと述べて、人種間の和解を訴えた。同夜、全米で暴動が相次ぐなか、この街は穏やかさを保ったという。

1968年6月5日、カリフォルニア州の予備選挙に勝利した直後、ロサンゼルスのホテルの調理場を通る途中でパレスチナ系アメリカ人サーハン・サーハンに銃撃され、翌6日の早朝に42歳で死亡した。遺体はアーリントン国立墓地の兄の墓のそばに葬られた。この事件も兄の暗殺と同様に謎が多いとされる。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物