HISTORICAL PERSON · 1968年没

ユーリイ・ガガーリン

1961年にボストーク1号に単身搭乗し、人類初の有人宇宙飛行を果たしたソビエト連邦の軍人・パイロット・宇宙飛行士。最終階級は大佐。

生涯
1968年没
死亡地
ロシア連邦(ヴラジーミル州 / Novosyolovo)
出生地
ロシア連邦(クルシノ)
出典
世界地図
ロシア連邦(ヴラジーミル州)

伝記

ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリンは、1934年3月9日にモスクワ西方のスモレンスク州グジャーツク市に近い村で生まれた、ソビエト連邦の軍人・パイロット・宇宙飛行士である。1961年、人類初の有人宇宙飛行として、ボストーク1号に単身で搭乗した。両親はコルホーズの労働者で、「労働者階級出身の英雄」像を強調するために農民だと語られることが多いが、実際には、父は教養のある腕利きの大工で、母も読書家だったという。四人兄弟の三人目で、第二次世界大戦は一家に大きな苦しみをもたらし、兄と姉は1943年にドイツによってポーランドへ連れ去られ、強制労働に従事させられて、戦争が終わるまで戻らなかった。少年時代はまじめで勉強家だが茶目っ気もあると評された。

1950年にモスクワの金属工場の見習いとなり、優秀だったため、翌年には技術教育を受けるためサラトフの学校へ送られた。そこでエアロクラブに入り、軽飛行機の飛行にとりつかれた。1955年に工業学校を卒業するとパイロットを志し、オレンブルクの空軍士官学校に入り、1957年にヴァレンチナ・ゴリチェヴァと結婚した。同年卒業して、ノルウェー国境に近いムルマンスクの基地に配属された。1959年にソ連の宇宙開発が本格化すると宇宙飛行士の選抜が始まり、1960年3月に全土から選ばれた20人の候補生の一人として、モスクワ近郊の基地に配属された。身体的・精神的な耐久性をテストされながら厳しい訓練を受け、有力な候補の一人と見なされるようになった。

1960年末には候補が6人に絞られ、最初期のボストーク宇宙船は非常に小さかったため、身長の低さが重要な要因となった。当時の記録では身長は158センチである。3月初めには、ガガーリンとゲルマン・チトフの二人に絞られた。4月8日の最終選考で、ガガーリンが正飛行士、チトフが代替要員と決まり、翌日両名に伝えられた。温和で社交的な性格や、労働者階級出身という点を強調しやすい生い立ちなどが、有力な要因とされる。1961年4月12日、ボストーク3KA-2で世界初の有人宇宙飛行に成功した。コールサインは「ケードル」(ヒマラヤスギ)だった。飛行中に中尉から少佐へ二階級特進したというニュースを聞いたが、政府高官が生還の可能性を低いと考えていたからだとも言われる。地球を1時間50分弱で1周したのち、高度7000メートルで座席ごと射出され、パラシュートで降下した。公式発表では宇宙船とともに着陸したとされた。

帰還後は一躍「時の人」となり、4月14日の赤の広場の式典で、フルシチョフとソ連共産党の偉大さを賞賛した。宇宙計画の広告塔として世界を旅し、1962年5月には日本も訪れた。身に危険のある訓練飛行は禁止され、3年ほど現場を離れたが、1963年12月に宇宙飛行士訓練センターの副所長となり、1964年にはジューコフスキー空軍技術アカデミーに入学した。同年10月にフルシチョフが失脚すると、地位は大きく低下した。1966年1月には師といえるコロリョフが死去した。1967年、親友のコマロフが搭乗するソユーズ1号のバックアップ要員に選ばれたが、コマロフは事故で死亡し、ガガーリンは宇宙飛行のミッションから外された。1968年3月27日、教官とともに搭乗した練習機でキルジャチ付近を飛行中に墜落し、34歳で亡くなった。原因は長く不明で、2011年に公開された調査報告書は、気象観測用の気球か鳥との衝突を避けようとしたためと結論づけたが、同僚のレオーノフはこれを否定している。

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