伝記
スカンデルベグは、中世アルバニアの君主であり、オスマン帝国に抵抗した民族的英雄である。本名はジェルジ・カストリオティといい、通称のスカンデルベグは、トルコ名のイスケンデル・ベイに由来する。生まれは1405年とする説が現在は広く受け入れられており、生地については諸説あるが、祖父の所領だったシネ村とする解釈がある。
父はアルバニア中部の領主ジョン・カストリオティである。1423年ごろ、父がバルカン半島で勢力を広げるオスマン帝国に臣従したため、兄弟とともに人質となり、イスラム教に改宗した。宮廷学校で学んだとされ、ムラト2世の宮廷に仕える騎士として、東ローマ帝国やセルビア、ハンガリーとの戦いに従軍した。その勇敢さから、アレクサンドロス大王にちなむ名を与えられたという。この名は「アレクサンドロス卿」「指導者アレクサンドロス」といった意味で、のちにキリスト教へ再改宗した後も彼が使い続け、イタリアに残った子孫もカストリオタ=スカンデルベグの名で知られるようになった。約20年にわたってムラト2世に仕え、1440年にはディブラのサンジャク・ベイ(県知事にあたる地位)に任じられたとされる。一方、1437年ごろに父の領土を封土として与えられて帰国し、アルバニアの軍司令官となったともいわれる。
1443年、フニャディ・ヤーノシュによるオスマン帝国への軍事活動に呼応して反旗を翻した。ニシュの戦いのさなかにオスマン側を離れ、クルヤとその周辺の支配者となったという。この際にキリスト教へ再改宗し、ヴェネツィア共和国、ナポリ王国、ローマ教皇の支援を取り付けた。1444年3月にはレジャ同盟を結び、地元の貴族たちの支持を得てアルバニアの諸侯国を統一した。1450年と1466年には、ムラト2世とメフメト2世の派遣したオスマン軍を撃退することに成功している。彼は署名にいつも「アルバニアの君主」と記し、それ以外の称号は主張しなかった。1451年にはガエータ条約で、ナポリ王国の宗主権を法的に認めて保護同盟を確保したが、実質的には独立した統治者であり続けた。1460年から1461年には、ナポリ王フェルディナンド1世の戦いを支援し、アンジュー家のジャン2世に対するイタリア遠征軍を率いた。1463年には教皇ピウス2世の十字軍の総司令官に指名されたが、軍勢が集結する途中で教皇が亡くなり、ヨーロッパ最大の十字軍は実現しなかった。ヴェネツィアとともに、第一次オスマン=ヴェネツィア戦争のなかで、死ぬまでオスマン帝国と戦った。
非常に優れた軍才を見せ、25年間にわたり独立を保ち、彼自身がかかわった戦闘についてはほぼ無敗だったともいわれる。1468年1月17日、アレッシオで死去した。彼の死後もアルバニアは12年間独立を維持したが、1480年、最終的にオスマン帝国に併合された。
スカンデルベグは、ハンガリーのフニャディ・ヤーノシュ、ワラキアのヴラド・ツェペシュと並び、オスマン帝国のヨーロッパへの拡大を遅らせた英雄と見なされる。西ヨーロッパでは、キリスト教徒の抵抗の模範とみなす人も多かった。19世紀にアルバニア人の民族意識が高まると、民族的英雄として高く評価されるようになり、独立運動と国民統合に大きな役割を果たした。現在のアルバニアでは、5000レク紙幣に肖像が使われ、彼の用いた紋章は国章の元になっている。
同じ年に亡くなった人物
- ゼラ・ヤコブ (1468年)
- フアン・デ・トルケマダ (1468年没)
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- フランチェスコ・スクァルチォーネ (1468年没)
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