伝記
ジャック・レオン・ルビーは、シカゴでユダヤ系ポーランド移民の家庭に生まれ、のちにテキサス州ダラスでナイトクラブを経営したアメリカの実業家である。出生名はジェイコブ・レオン・ルーベンスタインで、生年月日は3月から6月まで諸説あり、1911年3月25日とされることが多い。父ヨセフはポーランドのソコウフ・ポドラスキ出身の大工で、1903年に妻とともにアメリカへ移住した。8人きょうだいの5番目に生まれ、母は精神科の病院で亡くなったという。子ども時代は荒れており、1922年には問題のある子どもを預かる施設に送られ、16歳で学校をやめた。貧しい少年時代には、アル・カポネの使い走りをして小遣いを稼いだとも伝えられ、1920年代からマフィアと関わりを持った。1930年代にはシカゴの暴力団の使い走りをして、すでにストリップを扱う店の仕事にも関わっていたとされる。
第二次世界大戦では1943年からアメリカ軍に所属し、航空機の整備を担当した。仕事ぶりは真面目で、上等兵に昇進し、1946年2月21日に除隊している。1947年にシカゴからダラスへ移り、バーを営む姉のもとに身を寄せた。このとき他の兄弟とともに姓を「ルーベンスタイン」から「ルビー」に改めた。商売を始めるにあたり、ユダヤ系の姓が妨げになると知人に助言されたためだという。1950年代にはマフィアの仕事でキューバへ行き、銃や金の運び屋をしていた時期もあった。正式なマフィアの一員ではなかったといわれるが、カルロス・マルセロ、サント・トラフィカンテ、ジミー・ホッファらの側近たちと多くのつながりを持ち、ミッキー・コーエンとは友人だった。ダラスではナイトクラブを経営するかたわら、違法な賭博なども手がけ、銃器をキューバへ密売したともいわれる。
よくダラス市警の警官の面倒をみた人物でもあった。食事を用意し、話をするのを好み、経営するクラブでは警官に飲み物をただで振る舞い、営業時間後にはストリッパーとのデートを取り持つこともあった。1963年11月22日にケネディ大統領が暗殺されると、ルビーは病院を訪れ、夜には、オズワルドが尋問されている警察署に姿を見せて、深夜には検事の記者会見にも出席した。そして逮捕から2日後の11月24日、ダラス警察署の地下でオズワルドを移送する際に、多くの報道陣の面前で、テレビ中継中に射殺した。オズワルドが病院に運ばれると、異常なほど興奮して生死を周囲に尋ね、死んだと知らされてようやく落ち着いたという。ダイエット目的で常用していた薬の影響だと考えられている。
オズワルドとの面識は一切否定した。殺害の理由については、日曜日の朝にダイエット薬を飲んだところ、ユダヤ教の信者として信仰への愛を示したい、ジャクリーン夫人がダラスへ再び来て裁判に出ることを避けさせたいという気持ちがわいたと証言している。しかしその後の調査で、マフィアや反カストロのキューバ人亡命者のグループと深い関係にあったことが明らかになった。ウォーレン最高裁長官がダラス郡の拘置所で尋問した際には、自分の身の危険を感じており、オズワルドを殺害したとき、自分は誰かに操られていたとほのめかしたという。1964年3月14日、ダラス地方裁判所で「悪意を備えた殺人」の罪で有罪となり、死刑判決を受けた。再審を待つ獄中では、「何者かに癌細胞を注射された」などと、不可解な言動が見受けられた。1967年1月3日、ケネディとオズワルドが治療を受けたのと同じパークランド記念病院で、肺癌による肺血栓塞栓症により亡くなった。55歳で、生涯独身だった。
同じ年に亡くなった人物
- Peter Toth (1967年没)
- ドナルド・サングスター (1967年没)
- Josef Frank (1967年没)
- 山本周五郎 (1967年没)
- ダニエル・ジョーンズ (音声学者) (1967年没)
同じ地域に関係する人物
- ウィリアム・マッコール (2003年没)
- ジェイムズ・コットン (2017年没)
- エドウィン・ウォーカー (1993年没)
- ルーシャス・ジャクソン (2022年没)
- デイヴィッド・ブリンクリー (2003年没)