HISTORICAL PERSON · 1967年没

カーソン・マッカラーズ

処女小説『心は孤独な狩人』でアメリカ南部を舞台に、社会に順応できない人間や排除された人間の孤独を探ったアメリカの作家。小説のほか短編、戯曲、詩も書いた。

生涯
1967年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / ナイアック)
出生地
アメリカ合衆国(コロンバス)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

カーソン・マッカラーズは、本名をルーラ・カーソン・スミスといい、1917年2月19日にジョージア州コロンバスの中産階級の家に生まれたアメリカの作家である。母マーガレットは大農園主で南部同盟の兵士だった人物の孫娘にあたり、父ラマーはフランスのユグノーの血を引く時計職人で宝石商だった。弟と妹がいた。幼いころからピアノのレッスンを受け、15歳のときには、物語を書くことを励まそうとした父からタイプライターを贈られた。1934年9月、17歳で蒸気船に乗ってニューヨークへ向かい、ジュリアード音楽院でピアノを学ぼうとしたが、地下鉄で学費にするはずの金をなくしてしまい、一度も通わなかった。代わりに働きながら夜間の授業を受けて書く道を選んだ。ウェイトレスや犬の散歩など雑多な仕事をし、リューマチ熱で倒れて一度はコロンバスで療養した。その後ニューヨークに戻り、コロンビア大学の夜間クラスでテキサス出身の作家ドロシー・スカボローに、ニューヨーク大学でシルヴィア・ベイツに創作を学んだ。1936年、音楽の才能をもつ少年の思春期の不安と喪失を描いた自伝的な短編『ヴンダーキント』を雑誌に発表した。

1937年9月、20歳で、元兵士で作家志望のリーヴズ・マッカラーズと結婚し、ノースカロライナ州シャーロットで新婚生活を始めた。夫婦は、交代で一方が書き、もう一方が働いて稼ぐと約束したが、のちに彼女が作家として成功したため、夫の文学的な野心はかなわなかった。1940年、23歳で最初の長編『心は孤独な狩人』を完成させた。題名は、編集者がスコットランドの詩人フィオナ・マクラウドの詩「孤独な狩人」から提案したもので、当時は反ファシズムの小説と受け取られた。続く『黄金の眼に映るもの』は、2か月ほどで書き上げて雑誌に500ドルで売った。1940年に夫と別居し、翌年離婚した。ニューヨークへ移り、芸術家の集まる家に加わり、W・H・オーデンやベンジャミン・ブリテンらと親しくなった。戦後はしばしばパリで過ごし、トルーマン・カポーティやテネシー・ウィリアムズと親しく交わった。

1945年にリーヴズと再婚した。1946年には、少女が兄の結婚式で抱く気持ちを描いた『結婚式のメンバー』を発表した。この小説の舞台版は1950年から翌年にかけてブロードウェイで成功し、その年の最優秀の戯曲に選ばれた。1948年には鬱病のとき自殺を企てている。1953年、夫は彼女に心中を持ちかけたが、彼女は逃げ出し、のちに2人が住んでいたパリのホテルで、リーヴズは睡眠薬の過剰摂取で自殺した。1951年の中編『悲しき酒場の唄』は、芸術家の共同体ヤドーに滞在して書かれたもので、孤独と報われない愛の痛みを描いている。生涯に8冊の本を出した。

彼女は一生を通じて病に苦しんだ。15歳でリューマチ熱にかかり、若いころから脳卒中を起こし、31歳のときには左半身がすっかり麻痺していた。1967年9月29日、脳の大出血のため、ニューヨーク州ナイアックで亡くなった。『黄金の眼に映るもの』はジョン・ヒューストン監督によって映画化されたが、公開の約2週間前に亡くなった。『心は孤独な狩人』も1968年に映画化されたが、彼女は2本とも見ることができなかった。作品はよく「南部ゴシック」と呼ばれ、ゴア・ヴィダルはその作品を、アメリカ文化の満足のいく業績の一つと称賛した。彼女は「書くことは、わたしにとって、神を探すことだ」と語っている。

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