HISTORICAL PERSON · 1967年没

カシミール・フンク

玄米と白米による脚気のなりやすさの記事をきっかけに脚気の原因を研究し、ビタミンを発見して命名したポーランドの生化学者。

生涯
1967年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / オールバニ)
出生地
ポーランド共和国(ワルシャワ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

カシミール・フンク(ポーランド名カジミェシュ・フンク)は、1884年2月23日にワルシャワのユダヤ系の家に生まれたポーランドの生化学者で、ビタミンの命名者として知られる。父ヤクプ・イズラエロヴィチ・フンクは性病を専門とする医師、母はグスタヴァといった。当時、彼が暮らしたポーランドの地域はロシアの飛び地で、教育の機会は限られていた。フンクは家庭教師について、ワルシャワのギムナジウムに進む準備をし、1900年に卒業すると、スイスに送られた。ジュネーヴで1年を過ごしてからベルン大学に移り、スタニスワフ・コスタネツキの有機化学研究室で学んで、1904年に学位を取得した。論文の主題は、ブラジリンとヘマトキシリンという二つの染料の調製だった。

その後はパリのパスツール研究所でガブリエル・ベルトランのもとで有機塩基やアミノ酸を研究した。ベルトランは薬化学に関心があり、新入生に生化学入門の講義を開いていたが、学生の研究指導にはあまり関心がなく、助言で扱った物質に強い炎症を起こされて研究を中断するなど、必ずしも順調ではなかった。1906年にはベルリンのエミール・フィッシャーの研究室に移り、エーミール・アブデルハルデンの指導でタンパク質代謝を研究して、いくつもの論文をまとめた。アブデルハルデンは彼をヴィースバーデンの市立病院に送り、フンクは犬に精製したタンパク質やアミノ酸を与えて、体重が減ることを観察した。乾燥させた馬肉と粉乳を与えると、体重が戻ることを確かめたが、同様の問題に取り組んでいたアブデルハルデンはその実験を批判し、個人的な関係は緊張した。それでも二人は互いに敬意を払い続けたという。1910年にドイツを離れ、ロンドンのリスター予防医学研究所に所属した。1911年に英語で書いた最初の論文は、ジヒドロキシフェニルアラニンに関するものだった。

オランダの医師クリスティアーン・エイクマンの記事を読んだことが転機となった。玄米を食べる人は、精白した米だけを食べる人よりも脚気になりにくいという内容で、フンクはその原因となる物質の分離を試みて成功した。物質がアミノ基をもっていたため、「重要な生命活動をつかさどるアミン」の意味の造語で、これをビタミンと呼んだ。この物質について、フンクはビタミンB1だと考えたが、のちにナイアシンだったとも説明される。1911年に米ぬかに含まれる化学物質が不足することで脚気が起こると発表し、1912年に『国家医学雑誌』の論文で、脚気、壊血病、ペラグラ、くる病を防ぐ、少なくとも四つのビタミンが存在することを提案した。ビタミンは少量でも代謝や免疫、組織の成長と修復に欠かせないと考え、その摂取の重要性を主張し、ビタミンB2やビタミンC、ナイアシン、チアミンなどの発見にも関わったとされる。

1915年にアメリカに渡り、1920年には市民権を取得した。その後ポーランドに戻ったが、政情の不安を理由にパリに移り、自分の研究所を持つようになった。同じころ結婚し、最終的には15人の子の父になったという。ビタミンのほか、ホルモンや糖尿病、消化性潰瘍、癌に関する研究も行った。1967年11月20日、アメリカで亡くなった。

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