HISTORICAL PERSON · 1967年没

ウンベルト・デ・アレンカール・カステロ・ブランコ

1964年にグラール大統領に対しクーデターを起こして政権を握ったブラジルの軍人。左派を抑えて市場経済への復帰を目指し、外国資本を導入した。

生涯
1967年没
死亡地
ブラジル連邦共和国(セアラー州 / フォルタレザ)
出生地
ブラジル連邦共和国(フォルタレザ)
出典
世界地図
ブラジル連邦共和国(セアラー州)

伝記

ウンベルト・デ・アレンカール・カステロ・ブランコは、1897年9月20日、ブラジル北東部のフォルタレザで生まれた軍人・政治家で、第26代ブラジル大統領である。父は将軍のカンジド・ボルジェス・カステロ・ブランコ、母アントニエタ・デ・アレンカール・グルジェルは、作家ジョゼ・デ・アレンカールの一族に連なる人とされる。リオ・グランデ・ド・スル州のリオ・パルド陸軍学校で軍歴を始め、1918年にレアレンゴ陸軍士官学校に入り、歩兵科を学んで1921年に士官候補生となった。1923年に中尉に昇進し、1925年にはサンパウロで起きた反乱を鎮圧する政府軍の一員として分遣隊を指揮した。1927年にレアレンゴで歩兵の教官となり、同時代の多くの中尉と同じく、1930年革命にも参加した。

大尉の頃には、その知的な能力が際立った。1931年に陸軍参謀学校へ進み、首席で修了した。この時期の若いカステロ・ブランコは、プリーニオ・サルガードの統合主義に魅せられたが、統合主義者の蜂起の後は距離を置いたという。1938年に少佐に昇進し、フランスの高等戦争学校で学んで、帰国後は再び陸軍士官学校の教官となった。1943年に中佐に昇進してアメリカの陸軍参謀学校で学び、第二次世界大戦ではブラジル派遣軍の作戦部長として、イタリアの戦場に約300日間とどまった。妻アルヘンチーナと二人の子に60通の手紙を送った。モンテ・カステロの戦いなどの作戦を立案・実行し、優れた戦略家として派遣軍で大きな威信を得た一方、非常に打ち解けにくく、かなり皮肉屋だったという。1945年に大佐に昇進して帰国すると、陸軍参謀学校の教育部長となり、学校を教義研究の中心に変えていった。准将として、1952年11月から1954年5月までフォルタレザの第10軍管区を指揮し、1954年9月から1956年1月までは陸軍参謀学校の校長を務めた。1955年には、陸軍大臣ロット将軍が率いて、当選したクビシェッキ大統領の就任を保障した軍事行動を支持したが、その後ロットとは激しく決裂した。1958年から1960年にはアマゾン軍司令官を務めた。

1961年に副大統領のジョアン・グラールが大統領に昇格すると、農地改革や国有化など左翼的で急進的な民族主義の路線を強めようとした。これに対して1964年にクーデターが決行され、カステロ・ブランコは政権を握った。軍事政権の最初の大統領となり、左派勢力のデモを抑圧しつつ、市場経済への復帰を目指した。政権の初期にはアトス・インスティトゥシオナル第2号を公布して、多党制を廃止し、大統領に議員の任期を取り消す権限を与え、間接選挙を実施させた。外交では親米の政策をとり、外国資本を積極的に導入し、国営企業の民営化や、アメリカからの援助と先進国からの借款による経済発展に努めた。経済は年10から12%の高い水準で急成長したが、治安部隊を張り巡らせた強権的な対策への批判や、インフレによる通貨の不安定化も招いた。この成長は後任のコスタ・エ・シルバに引き継がれ、のち「ブラジル経済の奇跡」と呼ばれる発展の土台となった。1967年に大統領を辞し、同年7月18日に飛行機事故で亡くなった。

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