伝記
ヴァージル・アイヴァン・「ガス」・グリソムは、1926年4月3日にアメリカ・インディアナ州ミッチェルで生まれた空軍パイロットで、アメリカ初の有人宇宙飛行計画であるマーキュリー計画の宇宙飛行士のひとりである。父デニス・デイヴィッド・グリソムはボルティモア・アンド・オハイオ鉄道の信号手、母セシル・キング・グリソムは専業主婦で、ヴァージルは第2子だった。姉のレナは、彼の生まれる1年前に亡くなっている。「ガス」のあだ名は、友人が競技の得点表に書かれた彼の名を逆さまに読み、「グリス」を「ガス」と読み違えたことによる。少年時代は地元の教会に通い、ボーイスカウトに入って、新聞配達や果樹園での仕事で働いた。1940年にミッチェル高校に入り、バスケットボールをしたがったが背が低く、父の勧めで水泳部に入った。数学が得意だった。ベッドフォードの小さな空港に通ううちに航空に関心を持ち、小型機を持つ地元の弁護士から、飛行の基礎を教わった。
1944年に高校を卒業するとアメリカ陸軍航空軍に入隊したが、パイロットにはなれず、除隊までの時間の大半は事務員として過ごした。1945年に終戦で除隊してミッチェルに戻り、バスの製造会社で働いたが、航空の仕事に進むことと大学に入ることを決意していた。復員兵援護法で学費の一部をまかない、1946年9月にパデュー大学に入学した。妻ベティが電話会社の夜勤で生活費を支え、グリソム自身も料理人のアルバイトをしながら夏期講習も受け、1950年2月に機械工学の理学士号を取得した。卒業後は新設の空軍に再入隊し、1951年3月に少尉となってパイロットの資格を得た。朝鮮戦争では第334飛行隊でF-86に乗り、100回もの戦闘を経験した。戦後はテキサスの空軍基地でジェット機の教官となり、1955年に空軍工科大学で航空工学を学び、1956年にはエドワーズ空軍基地のテストパイロット学校に学んで、1957年にライト・パターソン空軍基地で戦闘機部門のテストパイロットとなった。
1959年、体力と精神力のテストの結果、マーキュリー計画の7人の宇宙飛行士、いわゆるマーキュリー・セブンのひとりに選ばれた。1961年7月21日、リバティベル7のパイロットとして、アメリカで2番目の弾道飛行を成し遂げたが、着水時にハッチが早く開いてしまい、海水がカプセルの中や宇宙服に入り込んだ。カプセルが沈むなかで溺れかけたが、ヘリコプターに救助された。その後ジェミニ計画に参加し、シェパードがメニエール病で地上勤務となったため、最初のパイロットに選ばれて、1965年3月23日にジェミニ3号で計画初の有人飛行を行った。これにより彼は、世界で初めて2度目の宇宙飛行を経験した人物となった。
アポロ計画では、最初の有人飛行となるアポロ1号の船長に決まった。航空宇宙局はマーキュリー・セブンの誰かを最初に月面に立たせたいと考えており、グリソムが存命なら、その人物になった可能性は高かったとされる。しかし1967年1月27日、船内での訓練中に、エドワード・ホワイト、ロジャー・チャフィーとともに、爆発炎上による事故で亡くなった。三人は、宇宙船のハッチが内側から開かない構造のため脱出できなかったが、皮肉にもこれは、リバティベル7の水没事故を受けた措置であった。航空宇宙局は即死と発表したが、検死報告書で、グリソムが炎のなかで15分以上生きていたことが判明したとされる。遺体はアーリントン国立墓地に葬られた。生涯の飛行時間は4,600時間で、うち3,500時間がジェット機によるものだった。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィクトル・デ・サバタ (1967年没)
- アリス・B・トクラス (1967年没)
- イオナ・ニキチェンコ (1967年没)
- ピート・ジョンソン (1967年没)
- デイヴィッド・マクスウェル・ファイフ (初代キルミュア伯爵) (1967年没)
同じ地域に関係する人物
- エドガー・ミッチェル (2016年没)
- トーマス・コートニー (2023年没)
- イーベル・クニーベル (2007年没)
- Cliff Barker (1998年没)
- ハーベイ・ファイアストーン (1938年没)