伝記
コジモ・デ・メディチは、1389年にフィレンツェで生まれた銀行家で、メディチ家によるフィレンツェ支配の基礎を築いた人物である。父はジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ、母はピッカルダ・ブエリで、双子の弟ダミアーノがいたが、この弟は翌年に亡くなった。双子は聖コスマスと聖ダミアヌスにちなんで名づけられ、その祝日の9月27日を、コジモはのちに自分の誕生日として祝うようになった。ほかに、6歳下の弟ロレンツォがおり、家業の銀行に加わった。通称はコジモ・イル・ヴェッキオ(老コジモ)という。
父ジョヴァンニはもともと金貸しから身を起こし、親族の銀行の支店をローマで任されたのち、フィレンツェに戻って自らメディチ銀行を設立した。銀行はローマ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどに支店を開き、利益の大半はローマから上がった。1410年にはのちの教皇ヨハネス23世となるバルダッサーレ・コッサに枢機卿の地位を買う資金を貸し、その返礼として教皇庁の財政を任された。1415年に公会議が教皇を廃してこの独占が崩れると、他行との競争にさらされたが、1420年のフィレンツェの銀行の破綻後、教会の取引の優先を確保した。同じ1415年に、コジモはフィレンツェ共和国のプリオーレに選ばれ、のちに大使も務めて、その慎重さで知られた。1429年に父が没するとメディチ家の当主となり、銀行をさらに発展させ、ロンドン、ブルッヘ、アヴィニョン、ミラノなどにも支店を広げた。
しかし、その富と気前のよさは疑いを招いた。有力なギルドの長たち、とくにアルビッツィ家は、彼が政府を倒そうとしていると非難し、1433年にコジモはパドヴァとヴェネツィアへ追放された。翌1434年、彼に好意的な新しい政府が召還し、10月6日にアルビッツィ家が失脚・追放されると、コジモはフィレンツェに帰還した。以後は表に立つことを避け、共和国の形式を尊重しながら、選挙制度を操作して政府をメディチ派で固めた。
対外的にはイタリアの強国、ヴェネツィア、ミラノ、ナポリとの勢力均衡を図り、ヴェネツィアと距離を置いてフランチェスコ・スフォルツァと結んだ。1441年の和約で、フィレンツェはミラノのヴィスコンティ家からカセンティーノ地方を獲得した。ローマ教皇庁との結びつきも強め、1439年にはカトリックと東方教会の合同を目指すフィレンツェ公会議が開かれた。
文人や人文主義者を身辺に置き、図書館を整え、フィレンツェにメディチ宮殿やサン・ロレンツォ聖堂などを建てさせた。蔵書は万人に開かれていたという。ルネサンス期の重要なパトロンとして、ブルネレスキ、ミケロッツォ、ドナテッロらを庇護した。プラトンの思想に心酔し、私的な学芸サークルであるプラトン・アカデミーの基礎を作り、人文主義者マルシリオ・フィチーノにプラトン全集を翻訳させた。晩年は信仰に篤く、聖アントニヌスやサン・マルコ修道院のドミニコ会士と親しかったという。1464年夏、郊外の別荘で没し、当主の座は子のピエロが継いだ。「祖国の父」の称号を贈られたとされ、フィレンツェに納められた税金のおよそ65パーセントを負担していたともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- シャルル・ド・ブルゴーニュ (1414-1464) (1464年没)
- ピウス2世 (ローマ教皇) (1464年没)
- フリードリヒ2世 (ザクセン選帝侯) (1464年没)
- ザガン・パシャ (1464年没)
- ジョヴァンニ4世 (モンフェッラート侯) (1464年)
同じ地域に関係する人物
- ジョヴァンニ・ジェンティーレ (1944年没)
- ポッジョ・ブラッチョリーニ (1459年没)
- オリアーナ・ファラーチ (2006年没)
- ルドヴィーコ1世 (エトルリア王) (1803年没)
- Alfredo Martini (2014年没)