伝記
ジョルジュ・アンリ・ジョセフ・エドゥアール・ルメートルは、1894年7月17日にベルギーのエノー州シャルルロワで生まれた天文学者・宇宙物理学者で、カトリックの司祭でもあった。イエズス会の学校で人文科学を学んだのち、17歳でルーヴェン・カトリック大学の土木工学科に入った。1914年に第一次世界大戦が始まると、勉学を中断してベルギー陸軍に志願して入隊し、終戦後には戦功十字章を受けている。戦争の惨禍に深い衝撃を受け、戦後は物理学と数学を学びながら、司祭職に就く準備に入った。1920年に「いくつかの実変数関数の近似」という博士論文で博士号を取得し、メヘレンの神学校に入って、1923年に司祭に叙階された。神学校や司祭の仕事のなかでも好奇心は涸れず、1920年から相対性理論を学び、これを完全に身につけた。
1923年にはケンブリッジ大学に滞在し、アーサー・エディントンから恒星物理学や数値解析の手法を学んだ。翌年にはアメリカのハーバード大学天文台で、星雲の研究で知られたハーロー・シャプレーと共同研究を行い、同時にマサチューセッツ工科大学の博士課程に登録した。1925年にベルギーへ戻り、ルーヴェン・カトリック大学の非常勤講師となって、のちに国際的に物議を醸す論文を書きはじめた。1927年に『ブリュッセル科学会年報』に発表した論文で、彼は膨張宇宙という新しい考えを示した。アインシュタインは数学的な正しさは認めたものの、宇宙は不変だと信じており、膨張という考えは受け入れなかった。ルメートルは名声にはあまり関心がなく、自分の論文を広く紹介しようとはしなかった。同年にMITに戻って2つ目の博士論文を提出して博士号を取り、ルーヴェン・カトリック大学の正教授に任命された。
1931年、エディントンが1927年の論文に長い解説を付けた英訳を発表した。この年、ロンドンに招かれた会議で、特異点から始まる膨張宇宙説を唱え、「原始的原子」の考えを紹介した。彼自身は「宇宙卵が創生の瞬間に爆発した」と表現するのを好んだが、後にこの説を批判する人々が「ビッグバン理論」という呼び名を作った。この説は激しい反応を呼び、アインシュタインもその理論がキリスト教の天地創造の教義を強く連想させると疑った。これを発端として、宇宙論と宗教の論争が数十年続くが、ルメートルは常に科学と信仰を分けて考える立場を保った。やがてアインシュタインは考えを改め、1933年1月、二人でカリフォルニアのセミナーに出席した。ルメートルが自分の理論を詳しく説明すると、アインシュタインは立ち上がって拍手をし、「私が今までに聞いた中で最も美しく納得の行く説明です」と述べたという。
ルメートルの名は、アインシュタイン方程式の一様等方解であるフリードマン・ルメートル・ロバートソン・ウォーカー計量に残る。先に提唱したフリードマンとは独立に膨張宇宙論を提唱し、のちにハッブル=ルメートルの法則と呼ばれる宇宙の膨張速度の法則を、ハッブルに先立って発表した。宇宙年齢は100億年から200億年と見積もった。1934年にはベルギー科学界の最高の栄誉であるフランキ賞を受け、1936年にはローマ教皇庁立科学アカデミーの会員となって、1960年3月に議長に就いた。晩年は数値計算に熱心で、1958年には大学に初めてのコンピュータを導入させた。1964年に名誉教授として引退し、宇宙マイクロ波背景放射が発見されて間もない1966年6月20日にルーヴェンで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- マヌエル・マリア・ポンセ・ブロウセト (1966年没)
- Agostinho Fortes Filho (1966年没)
- シルヴェール・マース (1966年没)
- マージェリー・アリンガム (1966年没)
- ヘルベルト・オットー・ギレ (1966年没)
同じ地域に関係する人物
- クリスチャン・ドートルモン (1979年没)
- エドワード・ファン・ダイク (1977年没)
- ゲンマ・フリシウス (1555年没)
- マリベル・ビンソン (1961年没)
- ゴドフロワ1世 (ルーヴェン伯) (1139年没)