伝記
チェスター・ウィリアム・ニミッツは、1885年2月24日にテキサス州フレデリックスバーグで生まれたドイツ系のアメリカ海軍軍人である。最終階級は海軍元帥で、第二次世界大戦ではアメリカ太平洋艦隊司令長官と太平洋戦域最高司令官を務め、日本軍と戦った。祖父のチャールズは14歳で船員となってアメリカへ渡り、のちにフレデリックスバーグに町をつくった入植者らとともに移り、1852年にホテルを始め、州議会議員も務めた。冗談の名手で、ニミッツもこの特技を受け継いだという。父は彼の誕生前に亡くなり、母は夫の兄弟と再婚したため、少年は祖父と義父のホテルを手伝って育った。このころ培った人を見る目と人の動かし方は、のちに海軍で大いに役立ったとされる。
1900年に陸軍の若い少尉2人がホテルに泊まったことから陸軍士官学校を志したが、地元選出の下院議員の推薦枠がなくなっていた。海軍兵学校ならまだ枠があるとの返事を受け、親からの自立を望んでいたニミッツはこれを受け、1901年9月7日に入学した。海軍拡張政策で卒業が繰り上げられ、1905年1月30日に114人中7番の席次で卒業した。少尉候補生として東アジアへ向かう戦艦に配属され、日本に寄港した際には、日本海海戦で大勝したばかりの東郷平八郎と会話する機会を得て、深く感銘を受けた。1907年に少尉に任官し、駆逐艦「ディケーター」の艦長となったが、艦を座礁させて軍法会議にかけられ、「職務怠慢」で有罪となった。1909年からは潜水艦に回され、1910年10月に大尉に昇進した。1913年4月にキャサリン・フリーマンと結婚し、夫婦は終生喧嘩をすることさえなかったと子供たちが語っている。
同年にはディーゼルエンジンの研究のためドイツとベルギーへ派遣された。帰国後はニューヨーク海軍工廠に勤め、ある会社から年俸2万5000ドルの引き抜きを受けたが、断った。この工廠での経験は、のちにミッドウェー海戦の前に空母「ヨークタウン」の修理を見極めるのに役立った。第一次世界大戦では大西洋艦隊の潜水艦隊司令の参謀となり、1920年には真珠湾の潜水艦基地の建設主任を務めた。1927年に大佐となり、1934年には東郷平八郎の国葬に参列するため再び来日した。1938年に少将に昇進し、1939年8月に海軍省航海局長となった。ルーズベルト大統領は彼の人物鑑定眼を高く評価していた。
1941年12月8日、ワシントンの自宅のラジオで真珠湾攻撃を知った。12月16日、キンメル大将の後任として太平洋艦隊司令長官になるよう、ルーズベルトの意向を伝えられた。臨時長官のパイ中将が適任だとして一度は断ったが、認められず、12月31日に潜水艦の艦上で就任式を行った。「真珠湾の悪夢は誰の身にも起こり得たことだ」と述べて必要以上の処罰の拡大を避け、前任者の幕僚をほぼそのまま引き継いだ。これは意気消沈した将兵を奮い立たせるのに役立った。1942年3月には太平洋戦域最高司令官に任命され、南東と南西の太平洋方面を除く連合国軍の指揮権を持った。大艦巨砲が主役と考えていたが、真珠湾攻撃を機に空母と航空機の増強を図るようになった。情報主任参謀レイトンと通信傍受班のロシュフォートが日本海軍の暗号を解読し、その情報を元に珊瑚海海戦で日本軍の侵攻を阻止した。ミッドウェー島に日本軍が迫ると、2人の分析を信じて空母部隊をハワイに戻し、迎撃の準備を整えた。入院したハルゼーに代わりスプルーアンスを起用し、ヨークタウンを通常3か月とみられた修理のところ3日で戦線に復帰させた。1966年2月20日に没した。
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