HISTORICAL PERSON · 1966年没

ピーター・デバイ

1936年にノーベル化学賞を受賞した物理学者・化学者。チューリッヒ大学など各地の教授を歴任し、1940年から1950年まで米国のコーネル大学教授を務めた。

生涯
1966年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / イサカ)
出生地
オランダ(マーストリヒト)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

ピーター・ジョセフ・ウィリアム・デバイは、1884年3月24日にオランダのマーストリヒトで生まれた物理学者、化学者である。出生時の名はペトルス・ヨセフス・ウィルヘルムス・デバイェといい、のちに綴りを改めた。ドイツのアーヘン工科大学は生地から約30キロの距離にあり、彼はそこで数学、物理、化学を学んで、1905年にアルノルト・ゾンマーフェルトの指導のもとで学位を得た。ゾンマーフェルトの個人助手に任じられ、1906年にミュンヘン大学へ移り、1908年に放射圧についての論文で博士号を取得した。

1911年からはチューリッヒ大学、ユトレヒト大学、ゲッティンゲン大学の教授を歴任し、1920年にチューリッヒ工科大学、1927年にライプツィヒ大学の教授となった。1934年から1938年まではベルリン大学の教授とカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所の所長を兼ねた。1913年にマティルデ・アルベラーと結婚し、1女1男をもうけた。息子のピーター・P・デバイも物理学者となり、父の研究に協力することもあった。

研究では数多くの成果を残した。1912年には、非対称分子の電気双極子モーメントを研究し、この分子モーメントの単位に彼の名がつけられている。同じ年に、低温領域の比熱についてのアインシュタインの式を、プランクの量子論を用いて拡張した。これはデバイの比熱式と呼ばれる。1913年にはニールス・ボーアの原子構造の理論を拡張し、1914年から1915年にかけて、ポール・シェラーとX線散乱による構造解析法の「デバイ=シェラー法」を開発した。1923年にはエーリヒ・ヒュッケルと電解質溶液についての「デバイ=ヒュッケルの式」を提出し、同じ年にコンプトン効果の説明も行った。分子構造の研究への貢献により、1936年にノーベル化学賞を受け、ローレンツ・メダルやフランクリン・メダル、プリーストリー賞なども贈られた。

1939年にアメリカへ渡り、1940年からコーネル大学の教授を務めた。1946年にアメリカ合衆国に帰化し、その際に名前をオランダ風の綴りから英語風に改めたとされる。後に彼の功績を記念して、アメリカ化学会は1962年にピーター・デバイ賞を創設した。多くの伝記では、デバイがアメリカへ移ったのは、ナチスに強いられたドイツ国籍を拒んだためだとされてきた。ところが2006年、オランダでシベ・リスペンスの著書が出版され、新たな資料から、カイザー・ヴィルヘルム協会の運営に携わっていた彼がドイツの科学機関から「非アーリア人」を排除する動きに積極的に関わったと指摘された。1938年12月9日には、ドイツ物理学会の会長として全会員に宛て、ニュルンベルク法に従いユダヤ系ドイツ人の会員資格は続けられないとして、該当者に退会の通知を求める書簡を出している。リスペンスはまた、アインシュタインが1940年にコーネル大学へデバイの任用を警告しようとしたと主張した。一方、これらの事実関係についてはなお議論が続いている。デバイは、1966年4月に最初の心臓発作から回復したのち、同年11月2日、ニューヨーク州イサカで心筋梗塞により世を去った。

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