伝記
エンリケ航海王子は、1394年3月4日にポルトガルのポルトで生まれ、1460年11月13日に没した王子である。アヴィス王朝を開いたジョアン1世と、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘フィリパの間に生まれた第5子で、三男にあたる。自らは航海しなかったが、探検事業家、また航海者たちの援助者・指導者として、それまで未知の領域だったアフリカ西岸の踏破を進め、大航海時代の幕を開いた人物とされる。後にヴィゼウ公となった。
1414年、21歳のエンリケは父とともに、ジブラルタル海峡に面したアフリカ北岸のイスラーム勢力の都市セウタの攻略戦に加わった。翌年8月に攻略が完了し、武功を立てたエンリケは騎士に叙され、ジョアン1世が新たに設けたヴィゼウ公の位に就いた。この地でプレステ・ジョアンの伝説を聞き、サハラ砂漠を越えるキャラバンなどイスラム貿易の実態にも触れたことから、イスラム商人を介さずに金や香辛料を求める道を開くべく、アフリカ西岸航路、ひいてはインド航路の開拓への野望を抱くようになった、とされる。1420年5月25日にはテンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団の指導者となり、生涯その地位にあった。莫大な資産をもつ騎士団の援助は、探検事業の強力な資金源となった。
伝承によれば、1416年ごろ、ポルトガルの最南西端サン・ヴィセンテ岬のサグレス一帯に「王子の村」を建設し、造船所や天体観測所、航海術と地図製作を学ぶ学校を設けたという。ただし裏付けの取れない部分が多く、とくに航海学校の存在は後世の創作とみる見方が今日では有力である。探検の成果としては、1419年にジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコらによるマデイラ諸島の「発見」があり、翌年から植民地化が始まった。1427年にはアゾレス諸島が発見された。当時、ボハドル岬の先には煮えたぎる海が広がると信じられ、航海者は恐れて越えられなかったが、エンリケは1422年ごろから探検隊を送り続け、失敗を重ねたのち、1434年にジル・エアネスの隊がこの岬を越えた。
1437年には周囲の反対を押し切って北アフリカのタンジールへ派兵したが、イスラム勢力に完敗し、弟のフェルナンド王子が捕らえられ、捕虜のまま生涯を終えた。これによって軍事上の評価は地に落ち、以後は国内政治と探検事業に専念したという。1438年に兄ドゥアルテ1世が没すると、コインブラ公ペドロを支持し、6歳の甥アフォンソをアフォンソ5世として即位させ、摂政ペドロとともに支えた。新たに開発されたキャラベル船によって探検は進み、1441年にはモーリタニア沿岸に到達し、1444年にはセネガル川とヴェルデ岬に達した。これにより、サハラを行くキャラバンに頼らずアフリカ南部の富を得る航路という当初の目的が果たされ、1452年にはポルトガル初の金貨が鋳造された。国政でも多忙を極め、コインブラ大学に天文学の講座を設けている。
1460年、探検が今日のシエラレオネ沿岸に達した年に、エンリケは「王子の村」で66年の生涯を閉じた。その船団が踏破したアフリカ沿岸は2400キロに及ぶという。その死の28年後の1488年に、バルトロメウ・ディアスが喜望峰に達した。1960年にはリスボンに「発見のモニュメント」が建てられ、同年にエンリケ航海王子勲章も創設された。
同じ年に亡くなった人物
- Francesco II Acciaioli (1460年)
- アルブレヒト3世 (バイエルン公) (1460年没)
- リチャード・ネヴィル (第5代ソールズベリー伯) (1460年没)
- ニッコロ・アントニオ・コラントニオ (1460年(推定))
- 馬歓 (1460年)
同じ地域に関係する人物
- トリスタン・ヴァス・テイシェイラ (1480年没)
- クライヴ・ダン (2012年没)
- Arthur Owen (2002年没)
- ガスパル・コルテ=レアル (1500年代没)
- オットー・ミュール (2013年没)