伝記
ファールーク1世は、1920年2月11日にカイロのアブディーン宮殿で生まれた、ムハンマド・アリー朝の第10代君主(在位1936年から1952年)である。エジプト史上最後の君主として知られる。父は国王フアード1世、母は2番目の妻ナーズリー・サブリーで、アルバニア、チェルケス、トルコ、フランス、ギリシャ、エジプトの血を引く王家に生まれ、4人の妹がいた。父は養育を厳しく管理し、外部の人との接触を制限したため、王宮からほとんど出ずに育ち、遊び相手は妹たちだった。エジプトのアラビア語、トルコ語、フランス語を話し、のちに英語とイタリア語を学んで、古典アラビア語にも通じた。家庭教師からは、語学以外の成績について批判された。幼いころからいたずらでも知られ、空気銃で窓ガラスを撃ち抜いたこともあるという。
イートン校の入試に失敗したのち、イギリスのウーリッジ陸軍士官学校に学んだ。他の大英帝国支配下のアラブ諸国の国王たちと同様に、イギリスに従う王になるための教育を受けて育ったとされる。1936年1月にはジョージ5世の葬儀にエジプト代表として出席した。同年4月28日に父が心臓発作で亡くなり、16歳でエジプトに帰国して国王に即位した。5月6日にアレクサンドリアに着くと、大群衆に迎えられ、当初は「愛される王」と呼ばれて人気が高かった。父は約1億ドルと見積もられる財産を残したが、彼は国を治める準備がほとんどないまま王位に就いた。1938年にサフィナズ・ズルフィカール(ファリーダ王妃)と結婚して、国民に歓迎された。
しかし、イギリス軍の駐留は続き、実質的な統治権は駐エジプトのイギリス大使マイルズ・ランプソンが握っていた。ランプソンは彼を「あの子」と呼び、はじめは恩着せがましく、のちには軽蔑的に接した。大英帝国の力の衰えを感じていた国王は、これを鼻であしらって、反抗的な態度を取るようになった。1941年にロンメル率いるドイツ軍がエジプトに迫ると、イギリスを追い出すべきだとする世論が強まり、国王も反英内閣を樹立しようと決意した。ところが1942年2月、ランプソンは反独派のナッハースを首相とする内閣を要求し、断ると宮殿を英軍に包囲させ、要求に応じなければ国王を拉致して紅海上の巡洋艦に幽閉すると脅した。結局、国王は屈してナッハース内閣を樹立させた。この事件でイギリス支配への反発は高まり、脅迫に屈した国王の人気も急落した。
不満をそらすため、政府首脳の反対を押し切って1948年に第一次中東戦争に参戦したが、軍の準備不足で敗れ、威信は完全に失墜した。ギャンブルを好み、高級車を乗り回して、夜は愛人を連れてナイトクラブやカジノに入り浸り、暴飲暴食で肥満して「腐ったメロン」とも呼ばれた。男子が生まれなかったことなどから、1948年にファリーダ王妃と離婚し、1951年にナリマン・サディクと結婚して、待望の男児フアード2世が生まれた。1952年、ナギーブとナーセルの率いる自由将校団がクーデターを起こし、王位を追われた。7月26日、ヨットに財産を詰め込み、軍に見送られて亡命先のヨーロッパへ出航した。生後6か月の息子が王位を継いだが、翌1953年に君主制は廃止された。亡命先のイタリアでも華やかに暮らし、1965年3月18日、ローマのレストランで夜食の後に倒れて死亡した。
同じ年に亡くなった人物
- ラディスラフ・スタレヴィッチ (1965年没)
- ベルティル・リンドブラッド (1965年没)
- T・S・エリオット (1965年没)
- ユリウス・スクートナブ (1965年没)
- カール・オーベルク (1965年没)
同じ地域に関係する人物
- ティトゥス・ヘルミニウス・アクィリヌス (紀元前498年没)
- アナスタシウス2世 (ローマ教皇) (498年没)
- マルコ・ドミニス (1624年没)
- ヒュー・オニール (第2代ティロン伯) (1616年没)
- Timagenes (紀元前100)