伝記
ヘルマン・シュタウディンガーは、1881年3月23日にドイツのヴォルムスで生まれた化学者で、有機化学と高分子化学を専門とした。高分子の研究に多岐にわたる業績をあげ、1953年にノーベル化学賞を受賞した。父フランツはギムナジウムの哲学教授で、新カント派に属していた。ギムナジウムに進んだ彼は植物学に興味を持っていたが、大学では化学を専攻した。ハレ大学のほか、ミュンヘン大学とダルムシュタット工科大学でも学び、1903年にハレ大学で学位を取得して、ストラスブール大学の助手になった。1906年にドーラ・フェルスターと結婚し、4人の子供をもうけた。妻は彼の講義を書き起こして、研究を支えたという。
1905年にジフェニルケテンやイソプレンの合成法を発見し、この頃に見つけたケテンは、のちに合成化学上重要な中間体となった。1908年にカールスルーエ工科大学の員外教授となり、有用な有機化合物を単離したほか、のちにノーベル賞を受けるルジチカやライヒシュタインを博士号へ導いた。1912年にはチューリッヒ工科大学の教授となった。1919年には同僚とともに、有機アジドがトリフェニルホスフィンと反応する現象を報告し、これは今日、シュタウディンガー反応と呼ばれる。
第一次世界大戦では、1914年の秋にドイツの教授たちが戦争への支持を表明するなか、「九十三人のアピール」への署名を拒み、戦争を非難した数少ない学者の一人となった。1917年には、産業力で勝る協商国によってドイツが敗れると予測する論文を書き、できるだけ早い平和的解決を求めた。宗教的社会主義運動に参加していた彼は、同年に徴兵を拒否するためスイス国籍の取得を申請したが、ドイツ総領事館に却下された。この論文をめぐって化学者ハーバーが彼を攻撃すると、彼もハーバーの化学兵器計画への関与を批判した。
この時期に、ゴムの研究を進めた。ゴムの分子量が非常に大きいと測定されていたことをヒントに、1920年に、ゴムやデンプン、セルロース、タンパク質などの高分子は、短い単位が共有結合でつながった長い鎖だとする論文を発表した。当時の有力な有機化学者エミール・フィッシャーやハインリッヒ・ヴィーラントは、測定された大きな分子量は、小さな分子が集合して膠質を作ったための見かけの値だと考えており、彼の説は当初、異端とみなされた。1926年にヴィーラントの後任としてフライブルク大学の教授となり、定年まで同大学で過ごした。1930年には、分子量と粘度の関係を示すシュタウディンガーの式を導いた。1930年代には、浸透圧の測定やX線回折の研究、カロザースらの合成の成果が、彼の仮説を裏づけていった。
1933年にナチ党が政権を握ると、フライブルク大学の学長にはマルティン・ハイデッガーが就任した。ハイデッガーは以前から彼の思想を好んでおらず、彼を警察に告発して学内調査も始めた。1934年2月17日に彼は州の文部省に喚問され、解職を求める報告書が出されたが、世界的な名声を持つ彼を解職すれば外国の批判を受けるとの認識が広まり、辞職願に署名することで決着した。同年10月に辞職願は正式に却下された。その後もナチ党の圧迫は続き、高分子化学研究所の設立の請願はたびたび却下されて、外国出張も制限された。1935年には親衛隊の後援会員となっている。研究所の設置が認められたのは1940年で、1957年には夫人とともに来日し、昭和天皇に拝謁した。高分子化学の創始者といわれる彼は、1965年9月8日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- デヴィッド・O・セルズニック (1965年没)
- アルベルト・シュヴァイツァー (1965年没)
- ラディスラフ・スタレヴィッチ (1965年没)
- ウィリアム・マリオン・ブランハム (1965年没)
- 三船久蔵 (1965年没)
同じ地域に関係する人物
- ロータル・マイヤー (1895年没)
- アドルフ・フォン・ハルナック (1930年没)
- ヨゼフィーネ・フォン・バーデン (1900年没)
- ヴィルヘルム・クシランダー (1576年没)
- クルト・シュナイダー (1967年没)