HISTORICAL PERSON · 1965年没

モシェ・シャレット

イスラエルの政治家。初代外相と第2代首相を務めた。ベン=グリオンらの強硬派に比べ、外交で自国の安全を図る姿勢をとった。

生涯
1965年没
死亡地
イスラエル(エルサレム地区 / エルサレム)
出生地
ウクライナ(ヘルソン)
出典
世界地図
イスラエル(エルサレム地区)

伝記

モシェ・シャレットは、1894年10月15日、ロシア帝国の統治下にあったウクライナのヘルソンで生まれたイスラエルの政治家である。もとの姓はシェルトクといった。社会主義的なシオニズムの立場にあり、イスラエル建国の父の一人とされる。初代の外相を務め、第2代の首相にもなった。父ヤコブはユダヤ人のジャーナリスト・作家で、シオニズム運動に加わり、1882年にパレスチナへ移っていた。1906年に一家はオスマン帝国の統治下のパレスチナへ移住し、ラマッラーの北のアイン・シンヤ村の借家で暮らしながら、子供たちはアラビア語を学んだ。その後、ヤッファやのちにテルアビブとなる海沿いの新しい地区の近くへ移り住んだ。弟のイェフダーは、のちに音楽家となった。

ヘルズリヤ・ヘブライ高校の最初の卒業生の一人となり、優秀な成績で修了した。のちに、音楽院を経てイスタンブールの大学に進んで法律を学んだが、同じ学生にはベン=グリオンやイツハク・ベン=ツヴィらがいた。しかし第一次世界大戦のトルコの参戦と、1916年の父の死により、学業を中断して帰国した。1916年にオスマン帝国軍に入り、将校の課程を学んだ。トルコ語、ドイツ語、アラビア語に通じていたため、中尉の階級で軍の通訳として働いた。ドイツ軍やオスマン軍の指揮下で、マケドニアの戦線から、トランスヨルダン、シリアまで従軍し、ドイツの鉄十字章とオスマン帝国の功労章を受けた。

戦後、イギリスの委任統治下に置かれたパレスチナでは、1919年にユダヤ人住民代表委員会の書記となった。1921年にはロンドンに渡って政治学を学び、そこで、ベラルーシ出身のユダヤ人の娘ツィポラ・メイロフと知り合い、1922年に結婚して、2人の息子と1人の娘を持った。帰国後は、社会主義政党に入って労働組合の新聞の編集部に加わり、1931年にエルサレムへ移って、政治部の長ハイム・アルロゾロフの補佐になった。1933年にアルロゾロフが暗殺されると、その後任となり、イスラエル建国の1948年5月までの15年間、この職を務めた。この間、イギリス当局との交渉や、農業入植の継続に尽力した。

建国後は外相に就き、1956年まで務めた。政治姿勢は、ベン=グリオンのような暗殺作戦に積極的な強硬派に比べて、外交で自国の安全をはかる穏健派に属した。レバノンのアル=スルフ首相と秘密裏に交渉して、アラブ人との対立を平和的に解決したいと考えたが、ベン=グリオンは反対し、アル=スルフの暗殺を指示したため、両者の対立は決定的になった。ベン=グリオンは、当時外務省に属していた政治局を自分の直属にして、モサドと改名させた。ベン=グリオンが退陣した後、1954年から1955年まで首相を務め、暗殺作戦を重視しなくなった。しかしフェダインと呼ばれるアラブ人のゲリラ部隊が国境を侵犯して民間人を殺害し、インフラを破壊する問題を解決できなかった。国防問題が進展しないため、国防大臣にベン=グリオンを再び任命し、後に首相の座も譲った。1965年7月7日にエルサレムで亡くなった。イスラエルの20新シェケル紙幣に肖像が使われている。

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