伝記
アルマ・マリア・マーラー=ヴェルフェルは、1879年8月31日にウィーンで生まれた、作曲家グスタフ・マーラーの妻である。結婚前の姓はシンドラーといい、自身も作曲を行って、16の歌曲が今日に残されている。画家エミール・ヤーコプ・シンドラーの娘で、13歳のときに父を亡くし、母は父の弟子カール・モルと再婚した。彼女は実の父を愛した反面、養父は愛せなかったという。裕福な中流の家に育ち、母は芸術家のサロンを主宰していた。少女の頃から絵画、文学、哲学、作曲に才能を示し、美貌で多くの男性芸術家をとりこにした。世紀の変わり目に新進のアレクサンダー・ツェムリンスキーに入門し、歌曲の作曲を始めた。ツェムリンスキーは彼女に恋い焦がれていたというが、実際に恋愛関係にあったかは定かでない。それ以前にはグスタフ・クリムトとも深い仲にあったといわれる。
1900年11月10日に、19歳年上でウィーン宮廷歌劇場の監督だったグスタフ・マーラーと知り合った。当初は彼を嫌っていたが、求愛に応えて結婚を承諾した。一族や友人の反対は大きく、マーラーは田舎育ちのユダヤ人で、多額の借金があり、年齢差も大きかった。マーラーは彼女に献身を求め、婚約の時から彼女が作曲することを禁じるなど、命令的な態度を取った。1902年に結婚し、長女マリア・アンナと、1904年に次女アンナ・ユスティーネが生まれた。マーラーの借金や育児、互いの交友関係が合わないことが彼女の心労となり、夫の楽譜の清書を手伝っても、その献身をマーラーが常に尊重したわけではなかった。夫婦仲が冷えていた折、建築家ヴァルター・グロピウスに出会って求愛され、彼女自身も惹かれたという。晩年のマーラーが関係修復を望んでフロイトの診察を受けた話は有名で、彼はアルマの関心を取り戻そうと、彼女がかつてツェムリンスキーのもとで作った歌曲を出版社に持ち込んだ。1911年5月18日、マーラーは感染性心内膜炎で亡くなった。
未亡人となった後は、画家のオスカー・ココシュカらと関係を深め、1915年8月18日に、軍隊休暇中のグロピウスとベルリンで再婚した。二人の娘マノンは聡明な美少女だったが、虚弱で若くして亡くなり、かわいがっていた作曲家アルバン・ベルクは、「ある天使の追想に」との献辞を持つヴァイオリン協奏曲を作曲した。1917年の秋にはプラハ生まれの詩人フランツ・ヴェルフェルと知り合い、1929年に再々婚した。1938年にオーストリアがナチス・ドイツに併合されると、南フランスに逃れ、1940年にフランスが占領されると、ピレネー山脈を徒歩で越えてスペインを経由し、ポルトガルへ逃れて、10月にニューヨークへたどり着いた。のちにロサンゼルスに定住して、自ら音楽サロンを開き、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、コルンゴルトら亡命作曲家が出入りした。
彼女は自伝の中で亡夫や同時代の音楽家について多くの証言を遺したが、思い違いや事実無根の逸話も少なくなく、今日では引用に慎重な音楽学者が多い。他方、ストラヴィンスキーの作品など新しい音楽には慧眼を示し、絶対音感に恵まれて、シェーンベルクの自作の歌曲の楽譜を、初見で歌ってみせて驚かせたといわれる。遺っている作品は歌曲のみである。1946年にアメリカの市民権を得て、1964年12月11日に亡くなり、ウィーンのグリンツィング墓地で、マーラーの墓の近くに眠る。
同じ年に亡くなった人物
- ヒンリヒ・ローゼ (1964年没)
- ロナルド・フェアバーン (1964年没)
- ペドロ・ペトローネ (1964年没)
- ワンダ・ワシレフスカヤ (1964年没)
- パウル・ヴァインシュタイン (1964年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョン・コック (2002年没)
- クラフチェンコ (1966年没)
- デイヴィッド・ダイアモンド (2005年没)
- メアリー・ウェルシュ・ヘミングウェイ (1986年没)
- スタンリー・タレンタイン (2000年没)