HISTORICAL PERSON · 1964年没

ゲルハルト・ドーマク

ドイツの病理学者・細菌学者。プロントジルの抗菌作用の発見で1939年のノーベル賞に選ばれたが、ナチス政権に禁じられて辞退し、1947年に改めて受賞した。

生涯
1964年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州 / ケーニヒスフェルト・イム・シュヴァルツバルト)
出生地
ポーランド共和国(ワグフ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州)

伝記

ゲルハルト・ドーマクは、1895年10月30日にドイツ帝国東部のラゴウ(現在のポーランド領)で生まれ、1964年4月24日にバーデン=ヴュルテンベルク州で没したドイツの病理学者、細菌学者である。1939年にノーベル生理学・医学賞に選ばれたが、ナチス政権がドイツ人の受賞を禁じたため辞退を余儀なくされ、1947年に戦後あらためて受賞した。

父パウル・リヒャルトは学校の教師で、兄エーリヒは幼くして亡くなり、妹にシャルロッテがいた。5歳のとき、父の転任でゾンマーフェルト(現在のルブスコ)に移り、そこで初等教育を終え、リーグニッツの学校で中等教育を修めた。1914年にキール大学で医学を学び始めたが、第一次世界大戦が始まって大学が閉鎖されたため、故郷に戻り、旧友15人とともに志願して連隊に入った。10月の最初の戦闘で、同行した友人のうち11人が戦死し、自分は辛うじて死を免れた。東部戦線に移された12月には頭を撃たれ、ベルリン近郊で療養し、衛生兵の訓練を受けた。1915年5月に衛生兵として東部戦線に戻り、戦場の惨状、とくに感染症による苦しみを目にした。後年、この恐ろしい印象は生涯つきまとい、細菌に対する手立てを考えさせたと語り、生きて帰れたら問題の解決に少しでも貢献するために働くと誓ったという。戦争が終わると、キール大学で医学の課程に戻り、1921年に医学博士号を取得した。1923年に病理学者ヴァルター・グロスと出会い、グライフスヴァルト大学の病理学研究所に迎えられて、1924年に講師となった。グロスがミュンスター大学に移ると、実験病理学の講師として招かれた。1925年にゲルトルート・シュトルーベと結婚し、三男一女をもうけた。

ミュンスターでは、新しい学科が期待どおりに栄えず、報酬も低かった。1927年、IG・ファルベン社が、実験病理学研究所の所長にと誘い、大学との兼任で、実験病理学と細菌学の研究主任となった。同社は細菌の化学療法に利用できる薬剤の開発をねらっており、研究はドーマクにまかされた。1928年にはミュンスター大学の一般病理学・病理解剖学の特任教授にもなっている。パウル・エールリヒの仕事を土台に、当時の同社の主力製品だった染料を、抗菌薬として調べた。1932年、赤色アゾ染料の一種である赤色プロントジルを調べたところ、レンサ球菌に感染したマウスを治療できた。ドーマクの娘がレンサ球菌に感染し、他の治療がすべて効かなくなった段階で、赤色プロントジルを投与したところ、治ったという。1935年に服用量などを確認し、赤色プロントジルは世界初のサルファ剤系の合成抗菌薬として発表された。これを受けて、より安価で安全な数千種のサルファ剤の誘導体が生まれ、肺炎を起こす細菌をはじめ、様々な微生物感染症に対する有力な武器が手に入った。この発見により、1939年のノーベル賞が決まった。1951年には抗結核薬イソニアジドを発見し、ストレプトマイシンとの併用で結核に高い効果を示した。1956年にパウル・エールリヒ賞を受け、1958年にミュンスター大学の教授となり、1959年にロンドン王立協会の外国人会員に選ばれた。

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