HISTORICAL PERSON · 1964年没

ノーバート・ウィーナー

米国の数学者。サイバネティックスの提唱者で、確率過程論のウィーナー過程でも知られる。11歳で大学に入学した神童だった。

生涯
1964年没
死亡地
スウェーデン王国(ストックホルム県 / ストックホルム)
出生地
アメリカ合衆国(コロンビア)
出典
世界地図
スウェーデン王国(ストックホルム県)

伝記

ノーバート・ウィーナーは、1894年11月26日にアメリカ合衆国ミズーリ州コロンビアで生まれた数学者で、サイバネティックスの提唱者である。父レオは、ポーランド系ユダヤ人でビャウィストク出身の言語学者であり、ハーバード大学でスラブ語の講師を務めていた。母はユダヤ人のバーサ・カーンで、ノーバートはその長子だった。父は7歳になるまで、自らの手で実験的で厳しい英才教育を授け、この指導と本人の才能によって、ウィーナーは神童に育った。1903年にアイヤー・ハイスクールに入学して、1906年に卒業し、同年9月、11歳でタフツ・カレッジに入学した。1909年、14歳のときに数学で学位を取り、ハーバード大学の大学院に進んだ。

大学院では動物学を専攻したが、1910年にコーネル大学の大学院に移って哲学を専攻し、翌年ふたたびハーバードに戻って哲学を続けた。1912年、18歳で数理論理学に関する論文によって博士号を得た。その後はイギリスのケンブリッジ大学に留学し、バートランド・ラッセルのもとで学び、ハーディの数学の講義に感銘を受けたという。1914年にはドイツのゲッティンゲン大学でヒルベルトやランダウに学んだ。再びアメリカに戻り、1915年から1916年にはハーバードで哲学の講師を一年間務めた。その後はゼネラル・エレクトリックで働き、百科事典の執筆にも携わり、メリーランド州の性能試験場では弾道学の仕事に就いた。1919年、24歳のときにマサチューセッツ工科大学の数学科の講師の職を得た。学生の間では、お粗末な講義のスタイルやジョーク、放心状態になることで有名だった。批判に対して過敏で、躁うつ的な傾向もあったとされる。

大学に勤める傍ら、たびたびヨーロッパに渡った。1926年にドイツ移民のマーガレット・エンゲマンと結婚し、二人の娘をもうけた。その後はグッゲンハイム財団の研究員として再びヨーロッパに渡り、ブラウン運動やフーリエ積分、調和解析、タウバー型定理などの研究に時間を費やした。確率過程論のウィーナー過程としても知られる。第二次世界大戦中の軍事研究では、射撃制御装置の研究が、通信理論への関心を結びつけ、サイバネティックスの形成を促した。戦後は、ウォーレン・マカロックやウォルター・ピッツら、人工知能や計算機科学、神経心理学の分野の優れた研究者の幾人かをMITに招いた。しかしのちに突然、不可解にも、苦心して集めた研究チームとの関係をすべて絶った。理由については、ウィーナーの鋭敏すぎる感情や妻マーガレットの関与など、さまざまな原因が推測されている。

冷戦期にはソ連の科学者への支持の表明などで疑念を呼び、共産主義者の嫌疑をかけられて赤狩りの対象にもなった。戦後は、科学研究への政治の干渉や、科学の軍事化の問題に強い関心を持つようになり、1947年1月号の雑誌に「ある科学者の反乱」と題する論説を発表して、科学者が自身の研究の倫理的な意味を熟考するよう強く主張した。自らは軍事関連の計画で働くことや、政府の援助を受けることを拒んだ。オートメーション技術を生活の質の向上や貧困地域の発展に用いる構想の強力な支持者でもあり、この構想はインドに大きな影響を与え、1950年代にはインド政府に助言した。1950年の『人間機械論』では、学歴社会について、統治者は永久に統治者であり、労働者は労働者に運命づけられていると述べた。1964年3月18日、スウェーデンのストックホルムで没した。69歳であった。没後の1970年には、ノーバート・ウィーナー応用数学賞が設立された。

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