伝記
デーヴァ・ラーヤ2世は、南インドのヴィジャヤナガル王国、サンガマ朝の君主である。プラウダ・デーヴァ・ラーヤとも呼ばれる。在位は1422年、または1423年2月10日から、1446年5月24日までとされる。サンガマ朝の君主のなかで最大とする見方が多く、有能な統治者であり、武人であり、学者でもあった。カンナダ語の『ソーバギナ・ソーネ』と『アマルカ』、サンスクリット語の『マハーナータカ・スダーニディ』を著した。「象狩りの王」を意味する称号をもった。
15世紀前半、祖父デーヴァ・ラーヤ1世の治世のころ、バフマニー朝がフィールーズ・シャーのもとで強大となり、ヴィジャヤナガル王国を圧迫していた。デーヴァ・ラーヤ2世は、短い治世で終わった父ヴィーラ・ヴィジャヤ・ブッカ・ラーヤのあとを継いだ。王子だった1423年ごろにすでにバフマニー朝との戦いで勝利をあげ、1425年から1426年にかけて、バフマニー朝を首都のグルバルガからビーダルへ遷都させた。王は軍制を改革し、ヴィジャヤナガルの軍にムスリムを加え、ヒンドゥー教徒の兵や将校に弓術を教えさせた。歴史家フィリシュタによると、騎兵8万、歩兵20万、弓術にすぐれたヒンドゥー兵6万を集めたという。これは、丈夫な馬と優れた弓兵の大部隊をもつバフマニー軍にならい、それに対抗するためだった。
オリッサのガジャパティ朝とも三度の重要な戦いを行った。1427年ごろにはバーヌデーヴァ4世とコンダヴィードゥで戦い、1436年ごろにはカピレーンドラがラージャマヘーンドリを征服しようとしたのを防ぎ、1441年ごろにも再び戦った。コンダヴィードゥのレッディ氏の侵入も退けられ、1432年ごろまでには、この地方の小首長たちがすべてヴィジャヤナガルの支配下に入った。1436年ごろにアラー・ウッディーン2世がバフマニーの王位につくと、弟のムハンマドを送って貢納を取り立てさせた。デーヴァ・ラーヤ2世は、大きな貢納を払って和を買わなければならなかったとされる。
1443年ごろ、王は暗殺未遂の被害にあったとみられ、ペルシア人のアブドゥッラッザークの見聞によると、王の弟が王や多くの貴族を宴に招いて、招待客の大半の首を斬らせ、宴に来なかった王を王宮で刺して傷を負わせた。バフマニーのスルターンはこれにつけこんで、70万パゴダの貢納を求め、王が拒んだため戦争になった。1443年のライチュール地方への遠征では、3回の激戦があったが、どちらも大きな戦果をあげられず、国境線はそのまま保たれた。その後、ムスリムの登用や国内でのモスクの建設を許し、バフマニー朝とは和睦して、婚姻関係や貢納で平和を保った。ヴィジャヤナガル王国はヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が共存できる寛容な国となり、王は称号として「ヒンドゥーの王にしてスルターン」を名のった。
王は詩人たちの保護者でもあり、カンナダ語の詩人チャーマラサとクマーラ・ヴィヤーサ、サンスクリット語の詩人グンダ・ディンディマ、テルグ語の詩人シュリーナータを庇護して、シュリーナータには「詩人の皇帝」の称号を与えた。ケーララ学派の数学者パラメーシュヴァラも支援した。西アジアとの交易にも積極的で、イランなどからは使節も訪れた。ケーララではクイロンの支配者らを破り、将軍ラッカンナがセイロンを侵略して貢納を集めたとされる。1446年に王が亡くなり、息子のデーヴァ・ラーヤ3世が継ぐと、ヴィジャヤナガルの優勢は終わり、バフマニー朝とガジャパティ朝が領土に侵攻を始めた。
同じ年に亡くなった人物
- クレメンス8世 (対立教皇) (1446年没)
- ルイ (ヴァンドーム伯) (1446年没)
- ヌーノ・トリスタン (1446年)
- マリー・ダンギャン (1446年没)
- フィリッポ・ブルネレスキ (1446年没)
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