伝記
マリア・デ・アラゴンは、カスティーリャ王フアン2世の最初の妃である。生まれたのは1396年とも1403年ともいわれ、カスティーリャで生まれたとされる。父はカスティーリャの王子で摂政も務め、のちにアラゴン王となったフェルナンド1世、母は王妃レオノール・デ・アルブルケルケである。兄にアラゴン王でナポリ王のアルフォンソ5世、弟にアラゴン王でナバラ王のフアン2世とビリェーナ公エンリケ、妹にポルトガル王ドゥアルテ1世の妃となったレオノールがいる。父は子供たちを、スペインの主な権力の中心に配する方針をとっていた。
マリアは、フアン2世がまだ幼いころから、従兄にあたる王との結婚が決められていた。1418年にメディナ・デル・カンポで婚約が盛大に祝われ、結婚は、王が成年に達した1420年に正式なものとなったともされる。なお、1415年にはマリアの兄アルフォンソ5世と夫の長姉マリアが、1420年にはマリアの弟エンリケと夫の次姉カタリナが結婚している。エンリケは王に対してトルデシリャスの政変を起こし、権力を固めるためにコルテスを召集して、気の進まないカタリナとの結婚を強いた。11月8日にアビラで行われたその結婚式は、盛大な儀式も祝宴もなく、年代記にも異例のこととして記された。マリアは、モリナやアティエンサ、ウエテ、デサ、アレバロ、ソリアなどの収入を受けた。
マリアは、ときには政治に積極的に関わり、アラゴンの王子であった兄弟たちを助け、それが夫の望みに逆らい、さらには夫から権力を奪うことにつながることもあった。このため夫から遠ざけられたことが何度もあり、夫フアン2世との関係はぎくしゃくしていた。王の寵臣で、はっきりとアラゴンに反対する立場の大元帥アルバロ・デ・ルナとの関係も悪かった。1437年には、母から相続したモンタルバンの町を手放さなければならず、その領主権はルナに与えられた。夫との間には1男3女が生まれ、息子のエンリケ4世(1425年-1474年)のほかの3人の娘、カタリナ(1422年-1424年)、レオノール(1423年-1425年)、マリア(1428年-1429年)は幼くして亡くなった。
マリアは1445年2月18日に、ビリャカスティンで亡くなった。妹でポルトガルの王太后であったレオノールが、その翌日に亡くなっている。2人の死は、大元帥とポルトガルの王子ペドロとの同盟の一部で、カスティーリャとポルトガルがアラゴンと持っていた結びつきを断つためだったかもしれないといわれる。当時の年代記作者は、大元帥アルバロ・デ・ルナが2人を毒殺したと非難し、現代の歴史学も、大元帥が王妃たちの侍女を通じて行わせたと疑っている。遺体はグアダルーペ修道院の王家の霊廟に葬られた。マリアの死後、夫はポルトガル王族のイサベルと再婚し、のちの女王イサベル1世とアストゥリアス公アルフォンソをもうけた。トランプのクラブのクイーンは、このアラゴンのマリアだとする説がある。
同じ年に亡くなった人物
- コンラート・ヴィッツ (1445年)
- Domenico di Bartolo (1445年)
- ムハンマド・シャー (サイイド朝) (1445年没)
- ジョヴァンニ・ジャコモ (1445年没)
- Mark of Ephesus (1445年)
同じ地域に関係する人物
- ルチア・ボゼー (2020年没)
- レオノール・デ・アラゴン (カスティーリャ王妃) (1382年没)
- ブランカ1世 (ナバラ女王) (1441年没)