伝記
大ジュリアーノ・チェザリーニは、カトリック教会の枢機卿である。1398年にローマで生まれ、教会大分裂が終わったころに、新しい教皇マルティヌス5世が抜擢した枢機卿のひとりである。ローマの小貴族のうち有力な家の出で、5人兄弟のひとりだった。同名の親族の小ジュリアーノ・チェザリーニは、1493年に枢機卿になっている。ペルージャ大学で学び、のちにここでローマ法を教え、教え子にドメニコ・カプラーニカがいた。1417年に教会大分裂が終わり、マルティヌス5世がローマで唯一の教皇として即位すると、ローマへ戻り、ブランダ・ダ・カスティリオーネ枢機卿のもとについた。
1419年、カスティリオーネ枢機卿が、フス派に対処するという難しい任務を受けてドイツとボヘミアへ向かったとき、高く評価されていたチェザリーニも同行した。1426年、マルティヌス5世はチェザリーニを枢機卿に昇格させ、フス派に対する十字軍の説教師としてドイツへ派遣した。十字軍がドマジュリツェの戦いで大敗したのち、バーゼルへ行き、すでに始まっていたバーゼル公会議に参加した。
チェザリーニはバーゼル公会議の議長となり、1431年の冬に、エウゲニウス4世が公会議の解散を命じたとき、いったんは抵抗し、これを取り下げさせた。しかし、公会議派の教皇への攻撃や圧力が過激になると、参加者の大多数は彼らに賛同していないと判断し、公会議派に見切りをつけた。1437年に公会議が分裂すると、フェラーラに移った教皇派を支持した。フェラーラでは、東方正教会との統合の折衝の指導者となった。当時のビザンツ帝国は、オスマン帝国の圧力で滅亡の危機にあり、カトリック教会との統合によって援助を得ようと、皇帝ヨハネス8世が自ら公会議に乗り込んでいた。1439年に疫病のためフェラーラの公会議がフィレンツェに移っても、ギリシアとの交渉を担い続けた。この年、合同教令の採択でいったん合意したが、ビザンツ帝国内の激しい抵抗によって、まもなく崩れた。
1442年、チェザリーニはエウゲニウス4世の教皇特使としてハンガリーを訪れた。ハンガリー王アルベルトが1439年に死去してから、後継者争いが起きていた。未亡人のエリーザベトは、幼い息子ラディスラウスを王にしようとしたが、貴族は、オスマン帝国の脅威に立ち向かえる人物として、ポーランド王ヴワディスワフ3世(ウラースロー1世)を王に選び、ハンガリーを守ると約束させた。チェザリーニは両者の交渉を仲介し、1442年12月13日にジェールで、ウラースロー1世を新王としたうえで、彼がラディスラウスの権利を保障するという合意をまとめた。その後ウラースロー1世と親しくなり、1443年には使節としてウィーンのフリードリヒ3世のもとを訪れ、ハンガリーで対オスマン十字軍の計画づくりにも携わった。ウラースロー1世は1444年6月にオスマン帝国のムラト2世とセゲドの和約を結んだが、チェザリーニは条約を破るようそそのかしたとされ、9月に十字軍の遠征が再開された。チェザリーニも同行したが、11月10日のヴァルナの戦いで十字軍は大敗し、ウラースロー1世とチェザリーニは戦死した。のちの教皇ピウス2世ピッコローミニがミラノ公に送った報告によれば、チェザリーニは負傷して戦場から逃れたが、失血して気を失っていたところをハンガリー人に襲われ、身ぐるみをはがれて殺された。逃れたという噂が流れたが、まもなく否定された。教皇庁は、その死をなかなか認めなかった。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・ボーフォート (初代サマセット公) (1444年没)
- アリー・ベグ (1444年)
- ニッコロ・ピッチニーノ (1444年)
- オリベーラ・デスピナ (1444年)
- ヨセフ・アルボ (1444年)
同じ地域に関係する人物
- オットー・ブラウン (共産主義者) (1974年没)
- コンスタンチン・ベンケンドルフ (1828年没)
- アラヴィヴス (376年没)
- キモン・ゲオルギエフ (1969年没)
- ローター・コラッツ (1990年没)