HISTORICAL PERSON · 1440年没

ジル・ド・レ

百年戦争期フランスの貴族・軍人で、レ男爵。1429年にジャンヌ・ダルクに協力してオルレアン包囲戦やパテーの戦いに参加し、元帥に列せられ救国の英雄とも呼ばれた。ジャンヌの捕縛後、心は荒んでいった。

生涯
1440年没
死亡地
フランス共和国(ロワール=アトランティック県 / ナント)
出生地
フランス共和国(シャントセ=シュル=ロワール)
出典
世界地図
フランス共和国(ロワール=アトランティック県)

伝記

ジル・ド・レは、百年戦争期のフランスの貴族で軍人、ブルターニュ地方ナント近くのレ男爵、のちのフランス元帥である。本名はジル・ド・モンモランシー・ラヴァルといい、レは所領の名前である。1405年ごろ、シャントセの城で生まれた。父ギー・ド・ラヴァルは、遠縁のレ家の養子となって所領を広げた人物で、母はマリー・ド・クランである。ジルは、両家が合わさったロワール川流域の広い領地を受け継いだ。1415年10月の下旬に父が亡くなり、ジルと弟のルネは、母方の祖父ジャン・ド・クランに養われた。祖父は強引な領土拡大を繰り返す人物で、孫を政略結婚の駒に使い、1417年と1419年の2度の婚約は実らなかった。1420年11月22日には、近隣の領主の娘カトリーヌ・ド・トアールを誘拐して、ジルと無理やり結婚させた。

ジルも祖父を見習ったらしく、1423年には姑のベアトリスを誘拐して所領の割譲を要求し、拒まれると兵を送って占領した。1424年に宮廷に入り、1427年には、アンジュー公ルイ3世の副司令官となった祖父のもとで、アンジュー軍を動かす立場に出世して、初陣を飾った。1429年のオルレアン包囲戦ではジャンヌ・ダルクに協力し、パテーの戦いにも加わって、「救国の英雄」とも呼ばれた。7月17日のシャルル7世のランスでの戴冠式に出席し、元帥に列せられたが、9月のパリ包囲戦を最後にジャンヌと別れ、以後は所領に引き下がって、目立った軍事活動はしていない。1431年5月にジャンヌがイングランドに捕らえられると、救出のためルーアンを攻撃したともされる。

そのころから、ジルの心はしだいに荒んでいったとされる。湯水のように財産を使い、錬金術にふけった。フランソワ・プレラーティら錬金術師を名乗る者たちに黒魔術を唆され、手下を使って、何百人ともいわれる幼い少年たちを拉致して殺害したと伝えられる。犠牲者は150人から1,500人にのぼるともいう。1432年に祖父が亡くなり、ジルの立場は悪くなった。1434年9月から翌年8月まではオルレアンに滞在し、マシュクールに建てた礼拝堂の費用を負担し、オルレアン包囲戦を題材にした劇の上演に費用をかけ、領地や城を次々に売った。浪費を案じた弟ルネや、かつての戦友アンドレ・ド・ラヴァルらは、シャルル7世に願い出て、1435年7月2日にジルを禁治産者に指定させた。1437年には、ラヴァル家がジルの居城シャントセを占領し、このとき子どもたちの白骨が見つかったが、のちにジルの家臣が城を奪い返し、処分したという。

1440年5月15日、所領をめぐる争いから、ジルがサン・テティエンヌ・ド・メール・モルトの聖職者を拉致・監禁したため、告発された。ナント司教ジャン・ド・マレストロワが調査に乗り出し、7月29日に告発状が公布され、9月15日にジルは逮捕されて、ナントの宗教裁判所に出頭した。公開の裁判で、ジルはすべてを告白し、泣きながら懺悔して、居合わせた人々に許しを請うた。10月26日に絞首刑となり、遺体は火刑に付された。火刑のとき、民衆はジルの魂が救われるよう祈りを捧げたという。ただし、裁判で述べられた内容には、ブルターニュ公ジャン5世の家臣や身内だった裁判官たちによって、誇張された面があることも否定できない。ジルをそそのかしたプレラーティは、黒魔術への関与を認めて終身刑となったが、脱獄し、1445年に捕らえられて絞首刑にされたという。ジルは、のちにペローの童話に登場する青ひげのモデルになったとも言われる。

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