HISTORICAL PERSON · 1963年没

ナーズム・ヒクメット

トルコ出身の詩人・劇作家・革命運動家。オスマン帝国領サロニカの生まれで、父は外交官。共産主義者として活動し、日本ではナジム・ヒクメットとも表記される。

生涯
1963年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ)
出生地
ギリシャ共和国(テッサロニキ)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

ナーズム・ヒクメットは、1901年または1902年に、オスマン帝国領のサロニカ(現在のギリシャ領テッサロニキ)で生まれたトルコの詩人・劇作家で、共産主義者として知られる。本名はメフメト・ナーズム・ランという。父は、ハンブルク総領事も務めた外交官ヒクメト・ベイ、母は画家のジェリーレ・ハヌムである。父方の祖父は、サロニカ県の最後の知事で、詩人でもあったメフメド・ナーズム・パシャで、母方の曽祖父はポーランド出身のムスタファ・ジェラーレッディン・パシャであり、高級官僚や軍人の家柄に育った。13歳から詩作を始め、1915年に海軍学校へ入学した。その詩が当時の海軍大臣ジェマル・パシャの目に留まったことが入学のきっかけだという。国語教師で有名な詩人ヤフヤ・ケマルに出会って本格的に詩を書くようになり、1919年に卒業したが、胸膜炎を理由に海軍を除籍された。水兵の革命運動に参加したためという説もある。当時のトルコは第一次世界大戦に敗れ、連合国に分割占領されていた。占領軍を弾劾する詩を書いて当局に追及され、1921年1月、国民闘争に加わるためアナトリアに渡り、山間部のボルで教師となって、トルコ農民の貧しい暮らしに触れた。

1921年9月、ソ連の東方勤労者共産大学に留学して社会学と経済学を学び、マヤコフスキーらと親交を結んで、その影響を受けた。1924年に秘密裏に帰国して左派の新聞・雑誌で働き、翌年トルコ共産党の第二回党大会で中央委員に選ばれたが、5月に共産党員の一斉検挙が始まったため、6月にモスクワへ亡命し、欠席裁判で懲役15年となった。1928年に処女詩集を出版したのち、恩赦を受けるため秘密裏に帰国して12月まで収監された。釈放後は『絵入り月刊誌』の編集者となり、1929年の詩集『835行』は文学界で反響を呼んだ。初期の詩はオスマン宮廷詩の伝統を重んじたが、アナトリアでの体験とマヤコフスキーの影響から、韻や定型を離れた自由詩を書くようになった。自由詩の旗頭として詩集や戯曲を発表したが、作品を出すたびに投獄された。1938年には陸軍と海軍の反乱を煽動した嫌疑で、合計28年4か月の懲役刑に処された。

アンカラやチャンクルの刑務所を経て、1940年12月から1950年7月15日の釈放まで、ブルサ刑務所に収監された。政府は作品を発禁とし、彼は獄中での詩作に専念して、叙事詩『人類のパノラマ』や戯曲『愛の伝説』を手がけた。1949年にはパリで釈放を求める特別委員会が作られ、釈放運動が各国に広がった。1950年4月8日にはハンガーストライキを開始し、同年の民主党政権が制定した総恩赦法で釈放された。従姉妹のミュネッヴェルと結ばれ、1951年3月には息子が生まれた。しかし政府の監視は続き、兵役につかせる決定が出されたことを自身への陰謀とみなして、1951年6月、モータボートで黒海に出てルーマニアの貨物船に拾われ、のちモスクワに移住した。同年7月にトルコ国籍を剥奪された。以後はソ連を拠点に東欧を巡り、平和活動に携わりながら戯曲などを発表した。1960年11月にヴェラ・トゥリヤコーヴァと結婚した。1963年6月3日、モスクワで心臓発作のため亡くなった。トルコで発禁処分が解かれたのは1965年のことで、国籍は2009年1月に閣議決定の無効化によって公式に回復された。

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