伝記
ジャン・コクトーは、1889年7月5日にパリ近郊の小さな町メゾン=ラフィットで生まれたフランスの芸術家である。詩人、小説家、劇作家、評論家であるだけでなく、画家、映画監督、脚本家としても活動し、その多彩さから「芸術のデパート」とまで呼ばれた。自身は、とりわけ詩人と呼ばれることを望んだという。12歳上の姉マルト、8歳上の兄ポールに次ぐ末っ子で、父ジョルジュには絵を描く趣味があったが、1898年にピストル自殺した。中学校時代は図工の成績がよく、同級生のピエール・ダルジュロスは、のちの小説『恐るべき子供たち』のダルジュロスのモデルともいわれる。高校では学業に力を入れず、マルセル・プルーストらと出会って文学に没頭したが、大学の受験に失敗して進学を断念した。
1909年、自費で最初の詩集『アラジンのランプ』を出版した。この頃ニジンスキーと出会い、ディアギレフのバレエ・リュスを通じて、ココ・シャネルをはじめとする多くの人々と知り合った。1911年にはストラヴィンスキーにも出会っている。1915年にはモディリアーニらモンパルナスの画家たちとの交流が始まり、同じ年にサティやピカソとも出会った。1916年8月12日にモンパルナスのカフェ「ラ・ロトンド」でピカソらが一堂に会した際に彼が撮った写真は、著名である。1917年には、ピカソ、サティと手がけたバレエ『パラード』が初演され、1918年には、のちに六人組と呼ばれる作曲家たちを集めたコンサートを開いた。1920年に、一時は関心を持っていたダダに反対の立場を鮮明にし、同年、プーランクらとジャズの演奏会も開いた。早熟の天才ラディゲと仕事を共にしていたが、1923年の彼の早すぎる死に深く悲嘆し、その後10年にわたって阿片に溺れることになる。
1926年にはシュルレアリストたちと激しく対立した。1929年、阿片の療養のなかで小説『恐るべき子供たち』を執筆した。1930年には、ノアイユ子爵の資金で、実質的な初監督作品『詩人の血』を撮り、1934年には演劇『地獄の機械』を初演した。1936年、世界一周の旅で日本に滞在した際には、友人の藤田嗣治と再会し、訳者の堀口大學も加わって、相撲観戦や歌舞伎見物、夜の街の散策を共にした。相撲を「バランスの芸術」と呼び、六代目尾上菊五郎に会って握手したが、白粉がはげないよう気を遣ったため菊五郎を感心させたという。日本で最初に衝撃を受けたのは、石けりをする少女が地面にチョークで描いた円で、子供がこれほど正確で幾何学的な線を描く国は他にないと驚きを語った。
1940年にエディット・ピアフのための演劇を書き、この年に阿片から足を洗った。1945年には代表的な映画作品『美女と野獣』を監督した。1955年にアカデミー・フランセーズとベルギー王立アカデミーの会員に選ばれ、1960年にはアンドレ・ブルトンの反対を受けながら「詩人の王」に選ばれた。1963年10月11日、親友でもあったエディット・ピアフが癌で死去したことを知って大きな衝撃を受け、その日の夜、就寝中に心臓発作を起こして亡くなった。あたかもピアフを追うような死で、二人の没年月日は同じである。
同じ年に亡くなった人物
- トマス・テリー・コナリー (1963年没)
- ヴァシル・バルヴィンスキー (1963年没)
- アンドルー・カニンガム (ハインドホープの初代カニンガム子爵) (1963年没)
- エルンスト・カントロヴィチ (1963年没)
- カール・スコッツベリ (1963年没)
同じ地域に関係する人物
- ピエール・ベジェ (1999年没)
- マルティン・ファン・メーレ (1926年没)
- ニコラ・アペール (1841年没)
- ロベール3世・ド・ラ・マルク (1536年没)
- ローズ・ヴァラン (1980年没)