HISTORICAL PERSON · 1962年没

マリリン・モンロー

アメリカの女優・モデル・歌手。金髪美女役で1950年代を代表するセックスシンボルとなり、活動は約10年ながら出演映画は大きな興行収入を上げた。

生涯
1962年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ブレントウッド)
出生地
アメリカ合衆国(ロサンゼルス)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

マリリン・モンローは、1926年6月1日、ロサンゼルスでノーマ・ジーン・モーテンソンとして生まれた。母グラディスの旧姓がモンローである。父は当時の夫マーティン・エドワード・モーテンセンとされていたが、実の父をめぐっては議論があり、2022年のDNA鑑定で、母の勤め先の同僚チャールズ・スタンレー・ギフォードと判明した。両親は1928年に離婚し、母は精神的にも経済的にも不安定だった。母には先夫との間に兄と姉がいたが、ノーマは12歳になるまでその存在を知らされなかった。1934年1月、母は精神を病んで妄想型統合失調症と診断され、以後は入退院を繰り返したため、ノーマは州の保護下に入り、母の友人グレース・ゴダードが身辺を管理することになった。同居先の一家のもとで性的虐待を受けた可能性があり、もともと内気だったのが吃音も出て引きこもりがちになった。1935年に孤児院に預けられ、1937年夏にグレースに引き取られたが、ゴダード家での生活は夫ドクの虐待でわずか数か月で終わり、親戚や知人の家を転々とした。のちに、最初に俳優になりたいと思ったのはこの頃だったと語っている。

1942年6月19日、16歳の誕生日を迎えた直後に、ゴダード家の隣人で21歳の工場労働者と結婚した。ゴダード夫妻が転勤で州外に出るため、ノーマは孤児院に戻らなくてはならなかったことが背景にある。高校を中退して専業主婦になったが、のちに「退屈で死にかけていた」と述べている。夫が海軍に入って戦地に赴いた1944年、航空機部品の工場で働き始めると、陸軍の映画部隊のカメラマンが撮影に来て、彼女の写真を撮った。1945年1月、前線にいる夫の反対を押し切って工場を辞め、単身ハリウッドへ移り、8月にモデル事務所と契約した。事務所は彼女の容姿をピンナップ向きと見て、髪を金髪に染めさせ、彼女はすぐ人気モデルになり、1946年初頭までに33誌の表紙を飾った。

1946年6月に俳優事務所と契約し、20世紀FOXのスクリーン・テストを受けた。幹部のザナックは難色を示したが、ライバル社に取られないよう、8月から半年の契約が結ばれた。このとき「マリリン・モンロー」の芸名を名乗った。「マリリン」は1920年代のブロードウェイの女優から、「モンロー」は母の旧姓からとったものである。9月に最初の夫と離婚した。契約は更新されたが、1947年8月に更新されず、1948年3月にコロンビア映画と契約した。唯一の出演作で初主演を果たしたものの、同年9月に契約は終了し、再びモデルに戻った。1950年にはいくつかの映画で脇役を演じ、『イヴの総て』や『アスファルト・ジャングル』の演技で注目された。12月、代理人ハイドの尽力でFOXと7年契約を結んだが、ハイドはその数日後に心臓発作で死んだ。

1953年の『ナイアガラ』『紳士は金髪がお好き』『百万長者と結婚する方法』で大成功を収め、スター女優となった。しかし同じ役柄ばかり当てられることや出演料の低さに不満を持ち、1954年初めに出演を拒否した。翌年の『七年目の浮気』で復帰し、同作は出演作中最大の興行収入を上げた。自分の制作会社を設立し、アクターズ・スタジオで演技を学び直し、1959年の『お熱いのがお好き』ではゴールデングローブ賞を受けた。ジョー・ディマジオ、アーサー・ミラーと結婚したが、いずれも離婚した。一方、薬物乱用やうつ病、不安障害にも悩まされていた。1962年8月5日、ロサンゼルスの自宅でバルビタールの過剰服用により36歳で死去した。遺作は1961年の『荒馬と女』である。

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