HISTORICAL PERSON · 1432年没

アンヌ・ド・ブルゴーニュ (1404-1432)

ブルゴーニュ公女で、英仏二重王国の摂政ベッドフォード公の妃。ルーアンに収容されたジャンヌ・ダルクの純潔検査を命じた。

生涯
1432年没
死亡地
フランス共和国(パリ / Tour Jean-sans-Peur)
出生地
フランス共和国(アラス)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

アンヌ・ド・ブルゴーニュは、フランス北東部の諸侯ブルゴーニュ公爵家の公女である。1404年9月30日に生まれ、1432年11月13日(14日とも)に没した。百年戦争後期に出現したイングランド・フランス二重王国の摂政ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターの最初の妻となった。英語名はアン・オブ・バーガンディーという。ブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)と、バイエルン=シュトラウビング公アルブレヒト1世の娘である妻マルグリットとの間の第7子で、六女として生まれた。姉に、フランス王太子ルイの妻となり、のちリッシュモン伯アルテュールの妻となったマルグリット、兄にブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)、妹にブルボン公シャルル1世の妻となったアニェスがいる。

1422年、ベッドフォード公ジョンは、父ヘンリー5世が8月31日に亡くなって、生後7か月の甥ヘンリー6世が幼いため、フランスの摂政に任じられた。ブルゴーニュ公家のヴァロワ王家への敵意は、アルマニャック派との内戦を引き起こし、フランスが敗れる主な要因の一つになっていた。1423年6月、アンヌは、トロワで、ベッドフォード公と結婚した。これは1423年のアミアン条約で取り決められたもので、兄の善良公とイングランドとの同盟を強めるための政略結婚だった。この同盟は、イングランドがフランスで成功を続けるために欠かせなかった。アンヌは、ベッドフォード公の意向で、フランスと和睦したがっている兄をたびたび説得して、思いとどまらせる役目を果たしていた。

1430年にジャンヌ・ダルクがルーアンに収容されると、アンヌ自身か、あるいはその侍女たちが、純潔の検査を行い、乙女であることを確かめたとされる。アンヌはジャンヌに感銘を受けたと伝えられ、監禁中は、男や見張り、高位の者がジャンヌに手荒なことをしてはならないと命じた。1431年にはルーアンでの処刑にも立ち会い、同年12月16日には、夫が挙行したパリのノートルダム大聖堂でのヘンリー6世のフランス王戴冠式に、夫とともに出席している。ベッドフォード公とアンヌは幸福な結婚生活を送ったものの、子はなかった。

1432年、アンヌはペストにかかって、パリで亡くなった。遺体はセレスタン修道院に葬られ、心臓はグラン・ゾーギュスタン修道院に納められた。墓は、ギヨーム・ヴルタンによって造られ、15世紀前半のパリの最も重要な墓像の一つとされる。墓は1849年に壊されたが、横たわる像はルーヴル美術館に、嘆く人々の像はクリュニー美術館に残る。1847年の発掘で見つかった遺骨は、名を記した銘板から彼女のものと確かめられ、1853年に、祖父フィリップ豪胆公の墓があるディジョンの大聖堂に改葬された。

アンヌの死の翌1433年、ベッドフォード公は、ジャケット・ド・リュクサンブールと再婚した。この再婚は、政治的な思惑から、アンヌの兄善良公の強い反対にあった。1430年に善良公がベッドフォード公の従妹イザベル・ド・ポルテュガルと結婚したときから、2人は疎遠になりはじめていたが、この事件以降、仲は悪くなった。こうして1435年に、ブルゴーニュ公がシャルル7世の陣営に走る素地が作られ、同じ年のうちに、善良公は正式にイングランドとの同盟を断った。

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