伝記
ジュール・ボルデは、1870年6月13日にベルギーのソワニーで生まれた細菌学者である。父シャルルは教師で、教育に理解のある家庭で育った。自然科学に興味を持ったのは中等学校を卒業した後だったともいわれ、自宅に小さな実験室を作って様々な実験を試みた。医学を志したのは16歳になってからである。1886年にブリュッセル自由大学で医学を学び始め、1892年に医学博士の学位を得た。論文「ワクチンを接種された生体へのウイルスの適応」でベルギー政府の奨学金を受け、1年間は海辺の病院で助手の医師を務めた。
1894年、パリのパスツール研究所に移り、免疫学の大家イリヤ・メチニコフの研究室で学んだ。ここで、白血球が細菌を取り込むのを観察し、1898年には、血清に熱を加えると、抗体が残っているにもかかわらず、細菌に対する血清の作用が失われることを発見した。ボルデは、抗体の作用に欠かせないが熱に弱い成分が血清中にあると考えて、これをアレキシンと名づけた。のちにエールリヒによる補体という名称が使われるようになった。免疫を獲得していない動物の血清にも補体が存在することを確認し、1905年には補体結合反応を発見した。1900年にパリを離れ、ブリュッセルにパスツール研究所を創設して、1901年から1940年まで所長を務めた。この反応は、ワッセルマンが梅毒の診断法を確立する足がかりとなり、ボルデ自身も腸チフスやブタ風邪の診断に補体を用いている。
1906年には、同国人のオクターブ・ジャングとともに百日咳の病原体を発見した。1900年にはすでに患者だけに見られる細菌を顕微鏡下で観察していたが、通常の培地では培養できなかった。そこで、グリセリンを加えたジャガイモ血液寒天培地という新しい培地を開発し、百日咳の患者から新種の細菌を分離培養して、これが原因であろうと考えた。この細菌は後に百日咳菌と名づけられ、ボルデテラ属という属名に、発見者の名が残った。後に百日咳のワクチンも開発している。
1907年、ブリュッセル自由大学の細菌学の教授に就任し、生涯にわたってそこで教えた。第一次世界大戦で破壊された大学を再建するため、渡米して基金を立ち上げ、その最中の1919年に、ノーベル生理学・医学賞の受賞を知らされた。ベルギー人としては初の生理学・医学賞の受賞者であった。1916年に王立協会の外国人会員に選ばれている。1921年には、自由党の上院議員として短期間議席についた。熱心な連邦主義者で、戦間期にはワロン地方とフランス語圏ベルギーの振興のために運動した。1924年からブリュッセルの腫瘍センターの科学指導にも加わり、1933年にはパリのパスツール研究所の科学評議会の議長を務めた。後年はバクテリオファージの研究を進めた。
補体の反応が敏感なのは、約20種類のタンパク質が連鎖して反応を起こすためだと、今では分かっている。末期に現れるC9補体は、10から15分子が集まると細菌の細胞膜に穴をつくり、細菌を死に至らしめる。ボルデは、1961年4月6日にブリュッセルで世を去り、軍の儀礼つきの公式の葬儀が営まれた。妻マルト・ルヴォーとの間に3人の子をもうけ、息子のポールも医師となった。小惑星9447番や研究所にその名が冠されている。
同じ年に亡くなった人物
- マヤ・デレン (1961年没)
- ヴァレンチン・ボンダレンコ (1961年没)
- ジュリア・ピーターキン (1961年没)
- アニタ・スチュワート (1961年没)
- クラレンス・ピンクストン (1961年没)
同じ地域に関係する人物
- レイモン・ゲタルス (2004年没)
- レオポルド3世 (ベルギー王) (1983年没)
- アンリ・ジャスパール (1939年没)
- フランソワ=オーギュスト・ジュヴァール (1908年没)
- ジャン4世 (ブラバント公) (1427年没)