HISTORICAL PERSON · 1961年没

ダグ・ハマーショルド

スウェーデンの外交官で、1953年から第2代国際連合事務総長を務めた。在任中に亡くなった唯一の事務総長である。

生涯
1961年没
死亡地
ザンビア共和国(カッパーベルト州 / ンドラ)
出生地
スウェーデン王国(ヨンショーピング市)
出典
世界地図
ザンビア共和国(カッパーベルト州)

伝記

ダーグ・ヤルマル・アグネ・カール・ハンマルフェルドは、日本ではダグ・ハマーショルドの名で知られるスウェーデンの政治家・外交官で、第2代の国際連合事務総長である。1905年7月29日にヨンショーピングで、首相を務めたヤルマルの四男として生まれた。母はアグネス・アルムクヴィストで、一族は17世紀まで王家に仕えた貴族の家柄である。少年時代の大半をウプサラで過ごし、ウプサラ大学で法学士と政治経済学の学位を優秀な成績で得て、卒業後はストックホルムの財務省に入った。1930年から1934年まで政府の失業問題委員会の書記官を務め、その間に経済学の学位論文「景気循環の展開」を書いて、ストックホルム大学から博士号を受けた。

その後は官僚として順調に昇進した。1936年から1945年まで財務次官を、1941年から1948年までスウェーデン国立銀行の総裁を務め、1945年には内閣の財政・経済問題担当の顧問になった。1947年には、ヨーロッパ十六か国がマーシャル・プランの受け入れを決めたパリ会議にスウェーデン代表として臨み、1948年の欧州経済協力機構の会議にも出席した。1949年に外務次官、1951年に無任所大臣となり、実質的には外務副大臣の役割を果たしたが、社会民主労働党の内閣のために働きながらも、公式にはどの政党にも属さなかった。1954年12月20日には、会員だった父の死去による欠員を補う形で、スウェーデン・アカデミーの会員に選ばれている。

1953年にトリグブ・リー事務総長が辞任すると、後任の選考は難航した。安全保障理事会が推薦を決めたのは3月31日で、本人には驚きだったという。4月に開かれた総会では、60票中57票を得て選任された。就任時の47歳8か月は歴代の事務総長で最も若い。当時は有能な経済学者で目立たない技術官僚とみられ、ソ連の代表も「無害」と見なしたといわれる。最初の仕事として約4000人の事務局を整え、職責を定める規則を作った。1955年には中華人民共和国を訪れ、朝鮮戦争で中国側の捕虜となっていた国連軍の米兵15人の釈放交渉に成功した。1956年のスエズ戦争では第一次国連緊急軍を組織し、イスラエルとアラブ諸国の調停に尽力した。ソ連は彼の行動を反ソビエト的だと非難して辞職を求めたが、1957年には、辞めることは簡単だが職を続けるほうが難しいと述べて再任された。

1960年にベルギー領コンゴが独立して内乱が激化すると、ハマーショルドは四度コンゴを訪れた。ソ連はアフリカの非植民地化への努力を不十分と評し、ルムンバ政権への支援が足りないとして辞任を要求し、西側・東側・非同盟から一人ずつ出す三人体制を提案した。1961年9月17日の夜、停戦の調停に向かう途中、搭乗機が北ローデシアのンドラで墜落し、翌18日に事故死した。ンドラとコンゴ側のンドロ空港の名が似ていて、操縦士が混同したと結論されたが、操縦士が警護上の理由で飛行計画を出していなかったことなどから、撃墜説や暗殺説が広まった。2013年に潘基文事務総長のもとで調査委員会が置かれ、2017年10月の報告書は外部からの攻撃や脅威が原因の可能性を示唆した。

死後の1961年、ノーベル平和賞が授与された。生前に決定していたもので、ノーベル賞は追贈されない。国連本部の図書館は彼の名を冠して命名された。1963年には唯一の著作『道しるべ』が出版され、自らをキリスト教の神秘主義者になぞらえ、外交を「内なる旅」と記した。

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