伝記
エルヴィン・シュレーディンガーは、1887年8月12日にオーストリア=ハンガリー帝国のウィーンに生まれた理論物理学者である。1926年に波動形式の量子力学である「波動力学」を提唱し、量子力学の基本方程式であるシュレーディンガー方程式や、1935年の思考実験「シュレーディンガーの猫」で名高い。父ルドルフはバイエルン王国の出身で広い教養を持った人物であり、一人っ子の彼もその影響を受けて、少年の頃から多方面に興味を示した。ギムナジウムでは自然科学だけでなく、古典言語の文法やドイツの詩、ショーペンハウアーの作品を好んだ。
1906年にウィーン大学に入学し、物理学を専攻した。入学の直前に、同国出身の物理学者ボルツマンがうつ病により自殺しており、後任としてフリードリヒ・ハーゼノールが教鞭を執った。彼はハーゼノールを通じてボルツマンの学説に強い感銘と影響を受け、理論物理学者を目指したのもボルツマンの影響が大きかったという。在学中は連続体力学の固有値問題に取り組み、博士課程ではハーゼノールが指導にあたった。1911年から助手を務めたが、第一次世界大戦が始まると、1914年から1918年にかけて砲兵の士官として各地の戦線に従軍した。師のハーゼノールはこの戦争で1915年に戦死している。1920年4月6日にアンネマリー・バーテルと結婚した。
結婚後は勤務先を転々とし、同年はイェーナ大学で助手を務め、9月にはシュトゥットガルト大学の准教授となった。翌1921年にはブレスラウ大学の教授を務め、同年にチューリッヒ大学で、マックス・フォン・ラウエの後任として数理物理学の教授となり、6年間在職した。同僚には、ピーター・デバイや数学者ヘルマン・ワイルがおり、特にワイルとは親しく交流した。この頃の主な研究は固体比熱、熱力学、原子スペクトルで、色の生理学的研究も行った。1925年から1926年にかけて、ド・ブロイが発見した物質波の概念を基にして、シュレーディンガー方程式を導き出し、波動力学を展開した。さらに、ハイゼンベルクが提唱した行列力学と自身の波動力学が、数学的に同等であることを証明した。
1927年にはベルリン大学でマックス・プランクの後任として教授を務めたが、1933年にヒトラーが政権を握ると、ユダヤ人学者の弾圧に反対して大学を辞職し、イギリスに渡ってオックスフォード大学のフェローとなった。同年、ポール・ディラックとともにノーベル物理学賞を受賞した。1935年に「シュレーディンガーの猫」を提唱し、1937年にはマックス・プランク・メダルを授与された。1938年のオーストリア併合で教授を解任され、一時は妻とイタリアに亡命し、ベルギーのゲント大学教授となったが、第二次世界大戦の開戦を受けて、1939年にアイルランド首相デ・ヴァレラの招きでアイルランドに亡命し、ダブリン高等研究所で研究を続けた。
1944年には、ダブリンのトリニティ・カレッジでの講演を基に『生命とは何か』を著し、分子生物学への道を開いた。1948年にアイルランドの市民権を得て、1955年に定年退職し、翌1956年にオーストリアへ帰国して母校ウィーン大学の教授となった。生涯ヒンドゥー教のヴェーダーンタ哲学に関心を抱き続け、1958年の『精神と物質』には、その考えが記されている。私生活では、結婚制度を軽蔑して複数の妻を持とうとし、婚外子を3人もうけるなど、奔放な生き方でも知られた。1961年1月4日、ウィーンで結核のため亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ヴォルフガング・フォン・トリップス (1961年没)
- ゲイリー・クーパー (1961年没)
- シェムセッティン・ギュナルタイ (1961年没)
- ヴァーツラフ・ターリヒ (1961年没)
- オーガスタス・ジョン (1961年没)
同じ地域に関係する人物
- アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェン (1822年没)
- クレマンティーヌ・ドルレアン (1907年没)
- アルフレート・フリート (1921年没)
- レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝) (1792年没)
- カール・シェーファー (1976年没)