伝記
ヨハン3世は、1374年に生まれたリエージュ司教君主で、最後の下バイエルン=シュトラウビング公である。フランス名はジャン・ド・バヴィエール。エノー伯、ホラント伯、ゼーラント伯のアルブレヒト1世(1335年―1404年)の三男で、ヴィルヘルム2世、アルブレヒト2世の弟にあたる。皇帝ルートヴィヒ4世の孫である。
1389年、まだ15歳ほどのヨハンは、アルノルト・ファン・ホルネの後継者として、リエージュの司教と、司教領の君主に選ばれた。リエージュでは、司教が世俗の権力を握っていた。ヨハンは教皇の特免を受けて副助祭の位を受けたが、司祭になることは拒んだ。純粋に俗人としての道を開いておくためだったとされる。治世の初めから強圧的で、特権と慣習を守ろうとする市民の反感を招いた。1394年にも反乱にあい、1402年にはリエージュを離れてマーストリヒトのドイツ騎士団の拠点に逃れた。都市の側は、アンリ・ド・ペルヴェを、摂政にあたる「マンブール」に選んだ。ヨハンが手をこまねいているうちに、反対派は1406年に彼の廃位を宣言し、マンブールの息子ティエリ・ド・ペルヴェを司教に選んだ。その軍は1407年から翌年にかけての冬にマーストリヒトを包囲した。
身の危険を感じたヨハンは、兄のヴィルヘルム2世、義兄のブルゴーニュ公ジャン無畏公の力を借りた。1408年、トンヘレン近くのオテーの平原で決戦があり、反乱側は粉砕され、八千人のリエージュ市民が死んだ。そのなかには、マンブールとその息子もいた。この戦いのあと、勝者の平和によって、都市の自治権と役職はすべて廃止された。ヨハンは、反乱に加わった市民や聖職者を容赦なく処刑し、ふたたび司教の座で無制限の権力をふるった。「無慈悲のジャン」の異名をとった。マンブールの未亡人は、ムーズ川に投げ込まれたという。それでも不穏な状態は続いた。
1417年にヴィルヘルム2世が男の子を残さず死ぬと、領地は娘のジャクリーヌが相続した。ヨハンは姪の相続に反対し、1418年までにリエージュの司教を辞して、下バイエルン=シュトラウビング公となった。フック派に対抗するタラ派の支援を受けて、ネーデルラントをめぐる戦争を始めた。1418年にはルクセンブルク女公エリーザベトと結婚した。エリーザベトは、ブラバント公アントワーヌの未亡人で、ローマ王ジギスムントの姪にあたる。ヨハンはジギスムントの後ろ盾を得て、エノー、ホラント、ゼーラント、フリースラントの伯として認められ、同じく勢力を伸ばそうとしていたブルゴーニュ公とも対立した。ジャクリーヌとその夫ブラバント公ジャン4世との戦いを優位に進め、1419年にドルドレヒトが陥落した。1420年に、ジャン4世からホラント、ゼーラント、フリースラントを譲られた。ジャクリーヌはエノーだけを持ち、夫と別れてイングランドの援助を求め、グロスター公ハンフリーと再婚した。このころ、ヨハンは画家ヤン・ファン・エイクを、1422年から1424年まで宮廷画家として召し抱えていたと考えられている。
ヨハンは1425年1月6日、ハーグで急死した。子がなく、シュトラウビング系は断絶した。毒殺の噂もある。甥のフィリップ善良公が相続権を主張し、ジャクリーヌとの戦争に勝って、1432年にエノー、ホラント、ゼーラントを得た。シュトラウビングは1429年に同族のルートヴィヒ7世らが分割相続した。
同じ年に亡くなった人物
- マーダヴァ (1425年没)
- Odette de Champdivers (1425年)
- カルロス3世 (ナバラ王) (1425年没)
- 足利義量 (1425年没)
- マヌエル2世パレオロゴス (1425年没)
同じ地域に関係する人物
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- ウニコ・ヴィルヘルム・ファン・ヴァッセナール (1766年没)
- Archibald Graafland (1975年没)
- ウィレム4世 (オラニエ公) (1751年没)
- カレル・ファブリティウス (1654年没)