伝記
トンマーゾ・モチェニーゴは、1343年にヴェネツィアで生まれた、ヴェネツィア共和国の元首である。父はピエトロである。行動の人で雄弁にも恵まれ、さまざまな仕事で頭角を現した。元首になる前は海軍の指揮官で、1378年から1381年のキオッジャの戦いでジェノヴァ共和国を破ったとされるが、ガレー船の指揮官として加わったかどうかには疑いもある。1396年のニコポリスの戦いでは、ヴェネツィア艦隊を率いて十字軍を支援した。1403年と1405年にはカンディア公を務め、国家に忠実に仕えて、サン・マルコの財務官にもなった。
1413年か1414年に、必要最小限の41票中25票で元首に選ばれた。選出は多くの候補者の間の取り決めの結果で、このときモチェニーゴはクレモナにいた。クレモナは外国の領土で、僭主ガブリーノ・フォンドロが治めていたため、命を案じて選出は伏せられ、彼は密かに脱出して、すぐに帰国した。元首としての治世は盛大な祝祭で始まった。彼はのちにオスマン帝国と和平を結んだが、まもなく破られ、艦隊はガリポリでオスマン海軍に敗れた。
やがて外交が難しくなった。ヴェネツィアは、アクイレイア総大司教ルドヴィーコ・ディ・テックから攻撃を受けていた。総大司教はハンガリーのジギスムントと結んでいたが、1419年にはヴェネツィア側が攻勢に立った。1420年までに、ウーディネ、チヴィダーレ、フェルトレ、ベッルーノ、フリウーリを奪い、カドーレも自ら降った。ハンガリーの仲介で和平が結ばれ、アクイレイア総大司教領はヴェネツィアに併合された。多くの貴族はさらなる征服を望んだが、モチェニーゴは領土の拡大を止めることを好み、遺言でも、長く費用のかかる戦争に踏み込まないよう戒めた。そうした拡大が、都市の重心を海から本土へ移すと考えていたからである。
彼は商業を大いに盛んにし、ドゥカーレ宮殿を建て直して、図書館をつくった。遺言には、年に1,000万ドゥカートの輸出と同じだけの輸入があった商業の規模や、国家がまるで巨大な海運会社のように、毎年15隻から20隻の船を仕立てて東方、エジプト、北アフリカ、英国やフランドルの港へ送ったことなどが記されている。1423年には、聖マルコ聖堂から使者が民衆に新元首の名を告げて同意を求めるという古い習わしが廃止された。民主制の最後の名残とされ、寡頭政の力が強まったのである。長い闘病ののち、同年に80歳近くで没し、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂に埋葬された。墓はピエトロ・ランベルティとジョヴァンニ・ディ・マルティーノが彫った。
同じ年に亡くなった人物
- アルブレヒト5世 (メクレンブルク公) (1423年没)
- ベネディクトゥス13世 (対立教皇) (1423年没)
- コンラート・フォン・ゼスト (1423年(推定))
- マルグリット・ド・バヴィエール (1423年没)
- ヨヴァン・ウロシュ・パレオロゴス (1423年没)
同じ地域に関係する人物
- Marco Ce (2014年没)
- オイゲン・フォン・ブラース (1931年没)
- エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリ (1948年没)
- フランコ・バザリア (1980年没)
- バルダッサーレ・ガルッピ (1785年没)