HISTORICAL PERSON · 1960年没

マックス・フォン・ラウエ

ドイツの物理学者。結晶によるX線回折現象を発見してX線が電磁波であることを示し、1914年にノーベル物理学賞を受賞した。ナチスには強く反対した。

生涯
1960年没
死亡地
西ドイツ(ベルリン / 西ベルリン)
出生地
ドイツ連邦共和国(コブレンツ)
出典
世界地図
西ドイツ(ベルリン)

伝記

マックス・テオドール・フェリックス・フォン・ラウエは、1879年10月9日にファッフェンドルフ(現在のコブレンツの一部)で生まれたドイツの物理学者である。結晶によるX線の回折現象を発見し、X線が電磁波であることを示した業績で、1914年にノーベル物理学賞を受けた。1898年にストラスブールで大学入学資格試験に合格したが徴兵され、兵役を終えた1899年からストラスブール大学、ゲッティンゲン大学、ミュンヘン大学で数学と物理学と化学を学んだ。1902年にベルリン大学に移ってマックス・プランクに師事し、オットー・ルンメルの講義の影響を受けた平行平面板での干渉現象の論文で、1903年に博士号を取得した。1906年にミュンヘン大学でアルノルト・ゾンマーフェルトのもとで大学教員資格を得て、同年ベルリンで私講師となり、プランクの助手を務めた。

このころアルベルト・アインシュタインと出会って友人となり、相対性理論の発展と受容にも貢献した。1910年から翌年にかけて、相対性理論に関する最初の本を書いた。1909年から1912年まではミュンヘン大学のゾンマーフェルトの助手を務めた。1912年1月、ミュンヘンの英国庭園を散歩していたときに、ゾンマーフェルトのもとで学ぶパウル・エバルトから博士論文の内容を聞かされた。ラウエはこれを聞いて興奮し、可視光よりずっと波長の短い場合に何が起こるかを知りたがった。硫酸銅の結晶にX線を当てて回折像を得ることで、X線が電磁波であることを示し、白色X線で回折写真をとる方法はラウエ法と呼ばれる。同年、ゾンマーフェルトがゲッティンゲンの物理学会でこの発見を報告した。1912年にチューリッヒ大学の教授となり、1913年に父が貴族に列せられたため「フォン」を名乗るようになった。1914年からフランクフルト大学で理論物理学を講じ、1919年にベルリン大学の教授に就任して、1943年に名誉教授となるまで務めた。

ラウエは国家社会主義に強く反対した。アインシュタインの相対性理論を「ユダヤ物理学」として無視した、フィリップ・レーナルトらの「ドイツ物理学」にも反対した。迫害された科学者を国外へ逃すことにも協力し、1933年にドイツ物理学会の会長として行った演説では、ガリレオの迫害と、アインシュタインを迫害する者たちを対比させた。1934年にフリッツ・ハーバーが亡命先で亡くなると、ハーバーをアテナイから追放されたテミストクレスにたとえるコメントを出し、1935年1月29日にプランクとともにハーバーの追悼式典を開いた。政府機関に勤める研究者の参列は禁じられ、多くが妻を代理で出席させるなか、参列したのはラウエともう一人だけだったという。こうした行動で政府に睨まれ、1925年から務めていた帝国物理工学研究所の顧問を解かれた。ナチスがデンマークに侵攻したとき、ハンガリー人化学者ヘヴェシーは、ラウエらのノーベル賞の金メダルを預かり、王水に溶かして隠した。戦後に金は取り出され、メダルが作り直されたという。

1945年4月、ドイツの原子力研究を調査する連合軍に拘束され、イングランド中部のハンティンドンに抑留された。ナチスに妥協せずに生き抜いた数少ない科学者であったため、他の抑留者からは距離を置かれたという。1946年初めにドイツへ戻り、ゲッティンゲンのカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所の所長として活動した。ドイツ物理学会の再建にも努め、戦後の科学界の復興に重要な役割を果たした。1960年4月24日に亡くなった。

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