伝記
アンジェロ・ファウスト・コッピは、1919年9月15日にイタリア北西部ピエモンテ州のカステッラーニアで生まれ、1960年1月2日にトルトーナで没した自転車競技の選手である。おもにロードレースで活躍し、「カンピオニッシモ」(チャンピオンの中のチャンピオン)と呼ばれた、イタリアスポーツ界の伝説的な英雄である。
貧しい農家の五人の子の四番目に生まれ、12、13歳のころから畑仕事を手伝った。最初の自転車は古いもので、同郷の英雄コスタンテ・ジラルデンゴに憧れた。14歳で近くの町ノーヴィ・リーグレの肉屋に勤め、毎日自転車で往復しながら配達もした。1935年、商船の士官だった叔父が、自転車への関心を見て400リラをくれ、レース用の自転車を買った。1937年にライセンスを持たない選手向けのレースに出て、その年の最後のレースで初めて勝った。1938年にカステッラーニアへ戻ってアマチュアのライセンスをとり、年末に初勝利を挙げた。この年から、肉屋の客で知り合いだった盲目のマッサージ師ビアジョ・カヴァンナが彼の面倒を見るようになった。1939年、ピエモンテ一周レースで、前年のツール・ド・フランスの覇者ジーノ・バルタリに食らいついて第3位となり、その夜、バルタリのチームの監督と契約を結んだ。
1940年、19歳でジロ・デ・イタリアの総合優勝を果たす鮮烈なデビューを飾った。1942年にはアワー・レコードに挑んで、時速45.798キロの記録をつくり、14年ぶりに世界記録を更新した。しかし第二次世界大戦の激化で、競技は中断された。1946年に活動を再開し、ミラノ~サンレモとジロ・ディ・ロンバルディアを制した。1947年にジロの二度目の総合優勝を果たし、1949年にはツール・ド・フランスとジロの両方で総合優勝して、史上初の「ダブルツール」を達成した。ジロ・ディ・ロンバルディアでは四連覇を成し遂げた。1952年には二度目のダブルツールを達成し、ツールでは2位に28分もの大差をつけた。ラルプ・デュエズが初めてツールに組み込まれた年でもあり、その山頂ゴールで優勝している。1953年にはジロで5回目の総合優勝を果たし、世界選手権も制した。ツール・ド・フランスの総合優勝は2回、ジロ・デ・イタリアの総合優勝は5回を数える。バルタリは強力なライバルで、対照的な二人はイタリアの人気を二分した。コッピは最初バルタリの助手を務めていた。レース以外でも体調管理に気を配り、栄養や昼寝を欠かさなかったが、ドーピングの面では、戦後にアンフェタミンを服用していたと、のちに告白している。
1950年代半ばから調子を落とした。1951年には、弟でチームメイトのセルセがレース中に転倒し、ホテルに戻った後、脳出血で亡くなった。1953年には、浮気で妻と別居したことが明るみに出た。1955年のジロでの1勝を最後に勝利から遠ざかった。1959年末、サイクリングと狩りを楽しむために滞在したアフリカのオートボルタでマラリアに感染し、帰国後に発症して、診療のミスによりトルトーナの病院で亡くなった。ジロの最高峰の峠は「チマ・コッピ」と呼ばれ、功績をたたえる碑も各地に建てられている。
同じ年に亡くなった人物
- メルヴィン・パーヴィス (1960年没)
- ハサン・サカ (1960年没)
- ドロテア・ダグラス・チェンバース (1960年没)
- アレグザンダー・マウントバッテン (初代キャリスブルック侯爵) (1960年没)
- ハロルド・スペンサー=ジョーンズ (1960年没)
同じ地域に関係する人物
- バルテルミー・カトリーヌ・ジュベール (1799年没)
- グリエルモ7世 (1292年没)
- ジャンルイージ・ボネッリ (2001年没)
- ジョヴァンニ・ジャコモ (1445年没)
- ランベルト・ダ・スポレート (イタリア王) (898年没)