伝記
フェルナンド1世は、アラゴン王、バレンシア王、バルセロナ伯、シチリア王で、トラスタマラ家出身の最初のアラゴン王である。1380年11月27日、カスティーリャ王フアン1世と、アラゴン王ペドロ4世の娘である王妃レオノールの次男として、メディナ・デル・カンポで生まれた。1416年4月2日に没した。「正義王」「誠実王」とも呼ばれ、即位前に1410年にグラナダ王国の支配下にあったアンテケーラを征服したことから、「アンテケーラのフェルナンド」とも呼ばれた。
10歳だった1390年、父フアン1世は、亡くなる少し前に、グアダラハラの議会で、兄エンリケの前でフェルナンドにララの領主権やペニャフィエル公領などを与えた。父の遺言で、メディナ・デル・カンポなどの町も加えられた。フェルナンドは、1390年に次男であるために王位には就けず、兄エンリケ3世が王位を継いだ。エンリケ3世は病弱で男子もいなかったため、フェルナンドは王位への望みを抱き、1393年(1394年とも)に、5歳年上の叔母レオノール・デ・アルブルケルケと結婚した。「富める女」と呼ばれた妻のおかげで、領地は大きく広がり、領土はカスティーリャを南北に二分するほどだった。しかし1405年に後継ぎの男子フアン2世が生まれると、その望みは絶たれた。
1406年、兄エンリケ3世が27歳で早世した。遺言により、2歳足らずの遺児フアン2世のために、その母后カタリナとフェルナンドが摂政となった。2人の対立が貴族に利用されたため、領土を南北に分け、フェルナンドはグアダラマ山脈以南、グラナダ王国までを担当することにした。摂政としての事績は、レコンキスタを主導したことで、1407年からナスル朝グラナダを西から攻撃し、プルナとサアラ・デ・ラ・シエラを攻略した。だがセテニルの攻略には失敗し、摂政会議に迫られて2年間の休戦を結んだ。休戦のあと、1410年に北西からグラナダへ再び進出し、9月16日、要地アンテケーラを落として名声を得た。また、摂政の地位を利用して一族の地位を固め、子どもたちが各地で大きな影響力を持つようになったため、その子らは「アラゴンの王子たち」と呼ばれた。
母方の伯父であるアラゴン王マルティン1世が、1410年に嗣子のないまま亡くなった。フェルナンドは、カスペの妥協によって、1412年にアラゴン王に選ばれた。この背景には、対立教皇ベネディクトゥス13世とその腹心ビセンテ・フェレールの工作、外国人ならば都合がよいと考えたカタルーニャやアラゴンの貴族たちの意向があった。1413年には、王位継承候補の1人であるウルジェイ伯ジャウマ2世が反乱を起こしたが、フェルナンドはこれを鎮圧し、カタルーニャをはじめアラゴン連合王国を構成する各国の自治を尊重した。1416年には、コンスタンツ公会議が宣言した、対立教皇ベネディクトゥス13世の廃位を受け入れ、40年にも及んだ教会大分裂を終わらせた。即位を支持したベネディクトゥス13世は、この裏切りを深く恨み、フェルナンドを破門したうえ、繰り返し呪詛し続けたという。
フェルナンドは1416年、イグアラダで35歳で死去した。子には、アラゴン王アルフォンソ5世、カスティーリャ王フアン2世の最初の王妃マリア、ナバラ王からのちアラゴン王となったフアン2世、ポルトガル王ドゥアルテ1世妃レオノールらがいる。アラゴンで戴冠した最後の王であり、カスティーリャでもフアン1世以降は戴冠が行われなくなっていたため、現在のスペインにあたる地域で戴冠した最後の王ともなった。
同じ年に亡くなった人物
- アンナ・ツィレイスカ (1416年没)
- Seyh Bedreddin Simavi (1416年没)
- レオノール・デ・トラスタマラ (1416年没)
- ハインリヒ1世 (ブラウンシュヴァイク公) (1416年没)
- プラハのイェロニーム (1416年)
同じ地域に関係する人物
- ラモン・バランゲー3世 (1131年没)
- Arturo Pomar (2016年没)
- ホアキナ・デ・ベドゥルナ (1854年没)
- ジャウマ・バルメス (1848年没)
- ブエナベントゥラ・カルロス・アリバウ (1862年没)