伝記
ティトゥス・フラウィウス・サビヌスは、1世紀後半に活動したローマの元老院議員で、紀元82年の執政官である。皇帝ウェスパシアヌスの兄である同名の人物を祖父に、69年の補充執政官であった同名の人物を父に持つ。弟には、95年に執政官となったティトゥス・フラウィウス・クレメンスがいる。皇帝ティトゥスとドミティアヌスにとっては父方の従兄弟の子にあたる。
69年は四皇帝の年と呼ばれる混乱の年で、この年の12月、サビヌスは父や祖父とともにウィテリウス派の兵に攻められ、カピトリウムに立てこもった。カピトリウムは炎に包まれ、祖父は殺されたが、父とサビヌスはその混乱の中で逃げのびた。
のちにサビヌスは、皇帝ティトゥスの娘ユリア・フラウィアと結婚した。結婚の時期ははっきりせず、ティトゥスの治世中で、おそらく81年か、あるいは70年代ともいわれる。一方、ドミティアヌスとの関係は良好ではなかった。ドミティアヌスが帝位に就く前から両者の仲は非常に緊張しており、サビヌスが奴隷たちに白い衣を着せていたことを、ドミティアヌスは皇帝とその子らだけの特権とみなして強く不快に思っていたという。
それでも82年、サビヌスはドミティアヌス帝とともに執政官を務めた。ドミティアヌスの治世で最初の正規執政官であり、父ウェスパシアヌスと同じように一族の者を要職に就けて、フラウィウス家の威光を示そうとした方針の一環だったとみられる。
しかしサビヌスはその後、皇帝に殺された。伝えられる理由は、触れ役が執政官の就任を告げる際に、サビヌスを「執政官」ではなく「皇帝」と呼んでしまったという、取るに足らない口実だった。実際の動機として、サビヌスの妻ユリア・フラウィアに対するドミティアヌスの恋情が挙げられている。彼女はティトゥスの娘で、ドミティアヌスにとっては姪にあたる。ティトゥスの生前から、二人の関係は周知のものとして古代の著作家たちに非難されていた。ティトゥスの没後はサビヌスが皇帝にもっとも近い親族となり、ドミティアヌスがその野心を恐れた可能性も指摘される。処刑の時期は、ユリア・フラウィアが91年に亡くなっていることから、83年から91年の間、おそらく執政官在任中かその直後の82年か83年とする見方がある。91年ごろとする伝えもある。ユリア・フラウィアは夫の死後も生き、ドミティアヌスと「夫婦のように」暮らしたと伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- クィントゥス・ペティリウス・ケリアリス (83年)
同じ地域に関係する人物
- グイド・ブリニョーネ (1959年没)
- ウルバヌス8世 (ローマ教皇) (1644年没)
- ルキウス・ユリウス・カエサル (紀元前64年の執政官) (紀元前40年没)
- ピエトロ・オットボーニ (1740年没)
- アルフレード・カゼッラ (1947年没)