HISTORICAL PERSON · 1414年没

マジドッディーン・フィールーザーバーディー

ペルシア出身の学者で、アラビア語の辞書を編纂したことで知られる。シーラーズやダマスクスで学びメッカに20年ほど住み、のちイエメンの大カーディーに任じられ、1415年にザビードで没した。

生涯
1414年没
死亡地
イエメン共和国(フダイダ県 / ザビード)
出生地
イラン共和国(カゼルン)
出典
世界地図
イエメン共和国(フダイダ県)

伝記

マジドッディーン・フィールーザーバーディーは、1329年ごろに生まれ、1414年か1415年に没した、ペルシア出身の学者である。アラビア語の辞書を編纂したことで知られ、辞書編纂学者、作家、翻訳者、裁判官、シャーフィイー派の法学者でもあった。本名はアブー・ターヒル・ムハンマド・ブン・ヤアクーブといい、「フィールーザーバーディー」の呼び名は、父の出身地フィールーザーバードに、「シーラーズィー」は、シーラーズで学んだことによる。彼は、アブー・バクルの子孫とされるシャイフ・アブー・イスハーク・シーラーズィーの血筋を引くとして、「敬虔な人の子孫」を意味するスィッディーキーという別名を名乗ることを好んだ。

1329年の2月か4月ごろ、ファールス地方のカーゼルーンで生まれた。生まれ故郷で、7歳のときまでにクルアーンをすべておぼえ、暗誦者になった。8歳でシーラーズへ行き、学者たちのもとで見習いをした。さらにワースィトで学んだのち、1344年前後からバグダードで学んだ。1349年前後には、ダマスクスで、シャーフィイー派の法学者スブキーに諸学を学んだ。同じ年、師とともにエルサレムへ移り住み、スブキーから学問の伝授を受け、若いながら弟子をとった。エルサレムでの生活は10年に及んだ。その後は旅に出て、おそらくカイロや小アジアを訪れたが、どこを遍歴したかは伝記作家によって大きく異なり、確かなことは分からない。

1368年前後に、メッカに移り住んだ。滞在は十数年から20年ほどといわれる。その後、インドへ向かい、デリーで5年間活動した。1392年前後には、ティムール朝のスルタンの招きに応じてバグダードへ行き、ティムールがシーラーズへ進むと、そこにも同行した。「跛行者」ティムールは、彼に最大級の敬意を払ったが、故郷の町々は戦乱でひどく破壊され、大学者を引き止める余力がなかった。彼はホルモズから船に乗り、1394年1月ごろ、イエメンにたどり着いた。イエメンのスルタンであるマリク・アシュラフは、彼を気に入り、14か月間、タイズの自邸に逗留させた。1395年9月22日には、彼をイエメンの大裁判官に任命し、自分の娘を嫁がせたうえで、ザビードに住まいを与えた。

1400年に、フィールーザーバーディーはメッカを巡礼し、かつて住んでいた自邸に3人の教師を置いて、穏健なマーリク派法学のマドラサとして運営できるように整えた。翌年、マディーナで、岳父マリク・アシュラフの死を知った。1403年にもメッカ巡礼をしたが、このときはすぐにザビードに戻った。1415年1月3日ごろ、ヒジュラ暦817年シャウワール月20日に、ザビードで没し、シャイフ・イスマーイール・ジャブルーティーの墓地に葬られた。

著作は60冊以上にのぼり、クルアーン学、ハディース、言語などの分野に及ぶ。主著は、アラビア語の辞書『カームース・ムヒート』で、4部からなり、およそ5世紀ものあいだ、最も広く使われた辞書の一つとなった。辞書の編纂では、項目ごとに典拠を示した最後の権威とされ、先行する辞書への言及は50ほどにのぼる。これを要約して2巻にまとめた版もあり、数多くの用例を引く大著の辞書よりも広く読まれた。タスニーフ形式の抒情詩を40ほど作ったことも知られ、イブン・アラビーを称える詩も詠んで、その著作に刺激を受けて、スーフィズムに強い関心を抱いた。

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