伝記
チャールズ・ハーディン・ホリー、通称バディ・ホリーは、1936年9月7日、アメリカのテキサス州ラボックで、4人兄弟の末っ子として生まれた。家系は英国とウェールズからの移民の子孫が中心で、わずかにネイティブ・アメリカンの血も入っていた。父ローレンス・オデルは、二人の祖父の名をとって「チャールズ・ハーディン」と名づけ、母エラは名を縮めて「バディ」と呼ぶようになった。音楽を愛する家庭で育ち、5歳のときには二人の兄ラリー、トラヴィスとともに地元の音楽コンテストに出場して賞をとった。1949年、13歳のときに自宅でワイヤー・レコーダーを使い、最初の録音をした。1951年にはハッチンソン中学でボブ・モンゴメリーと出会い、音楽活動を始めた。
1953年、ジャック・ニールとともに地元のラジオ局に自分たちを売り込んだ。局のオーナーのデイブ・ストーンと、DJのハイポケッツ・ダンカンは若い二人を支持し、日曜午後の音楽番組「サンデー・パーティー」を持たせてデモ録音の場所も提供した。1954年に結婚のためジャックが活動をやめると、中学の同級生ボブがパートナーとなった。ハイポケッツはラボックのダンスホールに人気カントリー歌手を呼び、その前座に二人を起用した。報酬は少額だったが、憧れのスターと同じ舞台に立てることに満足していた。ハイポケッツは、バディが外に出ていこうという決意に満ちていたと回想している。当時、自分たちの音楽を「ウェスタン&バップ」と呼び、名刺にも記していた。
1955年6月3日、ポンティアックの販売店の新装記念のショウにエルヴィス・プレスリーが出演し、その前座をバディとボブが務めた。バディはエルヴィスの音に強い衝撃を受け、ロックンロールに夢中になった。10月14日にはビル・ヘイリーを主役とするショウの前座を務め、随行していたナッシュビルのブッキング・エージェント、エディ・クランデルが、ソロ歌手としてのバディに強い関心を持つ。翌1956年1月、バディはデッカ・レコードと12か月、音楽出版社シダーウッド・ミュージックと3年間の契約を結んだ。契約書では綴りの誤りで姓が「ホリー」と記されたが、バディは気にせず、以後その綴りで通した。1月26日にナッシュビルで最初のセッションを行い、4月にデビューシングルが出たが、チャートには入らず、実売は1万9千枚だった。7月の2回目のセッションでは、のちの代表曲「ザットル・ビー・ザ・デイ」の初期版を録音したが、エンジニアは今まで聞いた中で最悪の曲だと言ったという。デッカ側の担当者は、バディに「君はこれまで一緒に仕事をした中で最も才能が無い」と告げたとされる。12月のセカンドシングルにも反応はなく、1957年1月26日、デッカは契約を打ち切った。
2月25日、バディたちはニューメキシコ州クロービスのスタジオで、「ザットル・ビー・ザ・デイ」を新たなアレンジと背景のコーラスで録り直し、デモを作った。いくつかのレコード会社に断られたのち、3月19日にコーラル・レコードと契約した。デッカとの契約でこの曲を5年間他社で再録音できなかったため、別のグループ名義で発売する苦肉の策がとられ、百科事典から選んだ昆虫の名でクリケッツが生まれた。ギター2本、ベース、ドラムスというバンドの編成は、後のロックバンドの基本形となった。1959年2月3日、リッチー・ヴァレンスらと乗った小型機の墜落事故で亡くなった。黒縁眼鏡の姿とテックスメックスと呼ばれる独特の音は後世のロック・グループに強い影響を与え、1986年にロックの殿堂入りを果たした。
同じ年に亡くなった人物
- カジミエシュ・バイン (1959年没)
- 永井荷風 (1959年没)
- エルネスト・ブロッホ (1959年没)
- マリオ・ランツァ (1959年没)
- ロアルト・ラルセン (1959年没)
同じ地域に関係する人物
- アメリア・ジェンクス・ブルーマー (1894年没)
- リッチー・ヴァレンス (1959年没)
- ポール・グレイ (2010年没)
- ジェームズ・ヴァン・アレン (2006年没)
- サミュエル・J・カークウッド (1894年没)