HISTORICAL PERSON · 1959年没

ステパーン・バンデーラ

ウクライナの政治家で、民族解放運動の指導者。オーストリア・ハンガリー帝国統治下のガリツィア地方の神父の家に生まれ、ウクライナの独立を目指す運動を率いた。

生涯
1959年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バイエルン州 / ミュンヘン)
出生地
ウクライナ(Staryi Uhryniv)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バイエルン州)

伝記

ステパーン・アンドリーヨヴィチ・バンデーラは、1909年1月1日、当時オーストリア=ハンガリー帝国の統治下にあったガリツィア地方のスタルィーイ・ウフルィーニウ村(現在のイヴァーノ=フランキーウシク州)で、アンドリーイ・バンデーラ神父の子として生まれたウクライナの民族主義運動の指導者である。1914年に第一次世界大戦が始まると村は東部戦線の舞台となり、激戦が繰り広げられた。1917年のロシア革命でウクライナ人民共和国が独立を宣言し、翌年には西ウクライナ人民共和国も生まれたが、ウクライナ人民共和国はソビエト・ロシアに、バンデーラが住む西ウクライナ人民共和国はウクライナ・ポーランド戦争の結果ポーランドに占領された。ポーランドによる支配のもとで少年期を過ごし、1922年には母が病没し、同年スカウト組織のメンバーになった。1927年に高校卒業試験に合格し、チェコスロバキアのウクライナ経済アカデミーに進もうとしたが、ポーランド当局はパスポートの発行を拒否した。翌1928年にリヴィウ工科大学へ入学したものの、卒業試験の前に政治活動を理由に逮捕・投獄された。ランニングやチェス、水泳、聖歌隊での歌、ギターやマンドリンの演奏を好み、酒も煙草もやらなかったという。

1928年にウクライナ軍事組織の一員となり、1929年にその後継組織であるウクライナ民族主義者組織に入党した。1931年に西ウクライナ支部の幹部に入り、1933年には幹事長となり、ポーランド政府の同化政策とウクライナ人への弾圧に対抗することを唱えた。1935年、前年6月に起きた内務大臣暗殺事件への関与の疑いでポーランド警察に逮捕され、1936年に死刑判決を受けたが、終身刑に減刑されて、ワルシャワの刑務所に収容された。1939年にドイツとソ連のポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まると、混乱に乗じて脱獄し、組織の幹部に復帰した。翌1940年に組織は、バンデーラ率いる一派とメリニク率いる一派に分裂した。

1941年4月、バンデーラ派の総裁に選ばれ、ソ連の支配からの解放軍としてドイツ軍を当初は支持した。バンデーラが執筆した「ウクライナ国家再生宣言」は、6月30日、ドイツ軍が占領したリヴィウで読み上げられた。しかしウクライナの独立に反対するナチス・ドイツはこれに反発し、7月5日にバンデーラを軟禁したのち、ザクセンハウゼン強制収容所に送った。この出来事により、バンデーラはソ連とドイツ双方への抵抗の象徴となった。1944年9月、ベルリンの獄中で反ソ連武装闘争の指導を持ちかけられたが、ナチス・ドイツとの協力は拒否した。一方で、一方で、バンデーラ派の宣伝担当がユダヤ人の物理的破壊を提唱し、副官もユダヤ人絶滅を支持したとする研究があり、前身の組織がドイツの諜報機関から資金を得ていたと指摘する研究者もいる。

戦後はウクライナへ戻れず、ドイツ南部に移った。1952年に組織の幹部を離れたが、ソ連軍に抵抗を続けるウクライナ蜂起軍の司令部と連携し、1956年から1959年には海外での活動を管理した。1959年10月15日、西ドイツのミュンヘンで、ソ連の国家保安委員会の工作員ボグダン・スタシンスキーに暗殺された。ソ連崩壊後のウクライナでは評価が分かれており、2010年にはユシチェンコ大統領が「ウクライナ英雄」の称号を授けたが、国内外のユダヤ系の人々の反発を受け、裁判所が布告を無効とした。2016年には、キーウのモスクワ通りがバンデーラ通りに改名された。

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