伝記
エセル・バリモアは、1879年8月15日にペンシルベニア州フィラデルフィアで生まれたアメリカの舞台女優・映画女優で、「アメリカ演劇の第一夫人」と呼ばれた。父はイングランド出身の俳優モーリス・バリモア、母は女優のジョージアナ・ドリューで、二番目の子だった。名は父が愛した小説の登場人物にちなむとされる。兄は俳優のライオネル、弟はジョンで、のちに三人は「バリモア一家」と呼ばれる名優たちになった。祖母は女優で劇場経営者のルイーザ・レイン・ドリューである。子ども時代はフィラデルフィアで過ごし、カトリック系の学校に通った。1884年に一家は2年間イギリスに移り、父はロンドンで舞台に立った。アメリカに戻った1886年、父に初めて野球の試合へ連れて行かれたことで、生涯にわたる野球好きになったという。
1893年の夏、結核を患っていた母は療養のためカリフォルニアのサンタバーバラへ移ったが、回復せずに7月、36歳で亡くなった。エセルとライオネルはこれで子ども時代を終え、高校を出ないまま十代で働くことを余儀なくされた。ブロードウェイへの初出演は1895年で、叔父のジョン・ドリューとモード・アダムズが主演する芝居だった。1897年にはウィリアム・ジレットとともにロンドンへ渡り、そこでヘンリー・アーヴィングとエレン・テリーに声をかけられ、ロンドン公演に加わった。各地の男性が彼女に夢中になり、ウィンストン・チャーチルも求婚したが、政治家の妻になることを望まず断ったという。二人の友情は生涯続いたとされる。
アメリカに戻ると、興行師のチャールズ・フローマンのもとで『ジンクス大尉』のトレントーニ夫人を演じ、これが彼女をスターにした。この上演を観客席から見ていた父は、のちに娘を抱きしめて祝福したが、父が娘の舞台を見たのはこれが最初で最後だったという。同作のツアーは、当時の名女優二人を上回る動員を記録した。『サンデー』では、後に最も有名になる台詞「それがすべてよ、これ以上はないわ」を口にした。1905年にはイプセンの『人形の家』のノラを、1922年にはシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』のジュリエットを演じた。1919年の俳優組合のストライキでは、友人のマリー・ドレスラーとともに組合を強く支持して、ライオネルと慈善公演に出演した。この支持はジョージ・M・コーハンとの友情を失わせたが、ストライキの直後に出演した『落ちぶれた女』で舞台の大成功を収め、1919年から翌シーズンまで上演された。
1926年にはモームの喜劇『貞淑な妻』で大成功を収め、モームは稽古中に彼女に「夢中になった」と語った。1932年の映画『怪僧ラスプーチン』では、兄ライオネル、弟ジョンと三人で初めて共演した。ジョンの死後、1953年の『ブロードウェイへの道』で兄と共演し、これはライオネルの遺作となった。映画、舞台、テレビと活躍し、1944年の『孤独な心』でアカデミー助演女優賞を受けてからは、主な活動の場を映画に移し、品のよい老婦人を演じ続けた。兄ライオネルとともに、オスカーを獲得した最初の兄妹でもある。1951年のアカデミー賞授賞式では、欠席したジュディ・ホリデイの代わりにオスカー像を受け取った。重要な役では病気がちの女性や、ベッドの上で死ぬ役が多かった。1959年6月18日に79歳で亡くなった。
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