HISTORICAL PERSON · 1959年没

アンテ・パヴェリッチ

クロアチアの政治家・弁護士・軍人。民族主義団体ウスタシャの指導者で、イタリアとナチス・ドイツの傀儡政権であるクロアチア独立国の国家元首を務めた。

生涯
1959年没
死亡地
スペイン王国(マドリード州 / マドリード)
出生地
ボスニア・ヘルツェゴビナ(ブラジナ)
出典
世界地図
スペイン王国(マドリード州)

伝記

アンテ・パヴェリッチは、1889年7月14日、当時オーストリア=ハンガリー帝国の占領下にあったヘルツェゴヴィナ北部のブラディナで生まれたクロアチアの政治家・弁護士である。両親は近隣のリカ地方の出身で、父は1878年に同地がオーストリア=ハンガリー帝国の統治下に入ったあとでボスニアに移り、国営鉄道の現場監督として働いた。父の転勤が続いたため、さまざまな学校で不規則な教育を受けた。のちにザグレブ大学で法律を学び、1918年に卒業して弁護士となった。若くしてクロアチア民族主義の団体に加わり、1912年にはオーストリア=ハンガリー当局に拘束されたことがある。極端な民族主義と対セルビア強硬論で知られたクロアチア法律党に属し、1915年ごろから1919年まで書記を務めた。

1919年には、ユーゴスラビアからのクロアチアの独立と、ボスニアおよびダルマチアの併合を訴える民族主義組織「若きクロアチア」に加わった。ザグレブ市議会の議員となり、1927年からはユーゴスラビア国会議員となって、クロアチアへの自治権賦与を主張した。同じ党から国会に出たのは二人だけで、会議にはめったに出席せず、出ても長い抗議演説をぶつだけだったという。この頃から、ウィーンやブダペストのクロアチア人亡命者や、マケドニアの独立派とも接触を持ち、イタリアの外務省にもクロアチア独立の構想を示した。

1928年、非合法の準軍事組織「クロアチア・ドモブラン」の編成に着手し、1929年1月7日にこれをウスタシャ・クロアチア革命機構に改編すると表明して、1月20日にオーストリアへ亡命した。同年4月、ハンガリーのファシスト組織やブルガリアの内部マケドニア革命組織との共同声明でユーゴスラビアの現体制の打倒を唱え、欠席のまま死刑を言い渡された。1932年にはクロアチア国内での蜂起へ方針を転じ、ムッソリーニの庇護を受けてイタリアに移り、ウスタシャの活動を指導した。イタリアにあった訓練キャンプでは暗殺実行のためのテロリストが訓練されたとされ、1934年にユーゴスラビア国王アレクサンダル1世の暗殺の組織者がイタリアで逮捕されると、訓練キャンプは一時閉鎖された。

ドイツ軍のユーゴスラビア侵攻後の1941年4月10日、クロアチア独立国の建国が宣言され、パヴェリッチは「ポグラヴニク」(指導者)となった。国王にはイタリアの王族が迎えられたが形式上の地位にとどまり、独裁権はパヴェリッチが握った。4月15日にザグレブに到着し、自ら首相兼外相となって組閣した。4月30日には国籍法が採択され、非アーリア系の市民は無国籍者とされ、民族間の結婚も禁止された。クロアチア独立国では、セルビア人の大量虐殺が行われた。日独伊三国同盟にも加わり、1943年のイタリアの降伏で国王が退位すると、名実ともに国家元首となった。

1945年5月のドイツ降伏後にオーストリアへ亡命し、ユーゴスラビアの人民裁判所は欠席裁判で死刑を宣告した。その後、イタリア、アルゼンチン、スペインに移り住んだ。1957年4月10日にブエノスアイレス郊外で襲撃されて重傷を負い、2年後の1959年12月28日、マドリードで死去した。

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