伝記
エンリコ・デ・ニコラは、1877年11月9日にナポリで生まれたイタリアの政治家で、イタリア共和国の初代大統領である。両親はアンジェロ・デ・ニコラとコンチェッタ・カプラニカで、ともにナポリの出身とされるが、職業や社会的な地位の詳細は記録に乏しい。弁護士の家に生まれ、自らも刑事事件を扱う弁護士として全国に名を知られた。政治的にはジョリッティ派の自由主義者で、1909年にアフラゴーラ選挙区から代議院議員に初当選して政界に入った。1913年から翌年にかけて植民地担当、1919年には財務担当の次官を務め、1920年には代議院の議長となった。
1922年にムッソリーニが「ローマ進軍」を起こすと、ファシストと社会主義者の和平協定の保証人の立場に立ったが、協定はまもなく破綻した。君主制を尊重し、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の権限を擁護した数少ない政治家の一人でもあった。ムッソリーニに組閣を委ねる際には、自由主義者やキリスト教民主主義者とともに信任を与えたとされる。議長の職は1924年まで務めたとされ、同年の選挙ではファシストとの共同名簿から立候補して再選されたが、宣誓を拒み、新しい議会に出ることはなかった。ファシストの独裁が確立すると半ば政界を引退に追い込まれ、のちに元老院議員に任命されたものの実態はなく、ほとんど隠遁状態にあった。
1943年にムッソリーニが失脚すると、ファシズム以前の権威の象徴として、連合国と王室とのあいだの調停役を求められた。1944年4月に「王国総代理」の職を用いる案を示したのもデ・ニコラだとイタリア人は考えており、この案によって、国王を脇へ退けつつ、王太子の即位を望まない左派三党の感情を傷つけずに済んだとされる。1946年に国民投票で王制の廃止と共和制への移行が決まると、憲法制定議会の間接選挙で、501票のうち396票(約8割)を得て暫定国家元首に選ばれた。首相デ・ガスペリが粘り強く説得を重ね、各党が推すオルランドやクローチェの候補の対立を超えて、この人物に落ち着いたという。この選出は主要政党の幹部たちの長い駆け引きの結果で、北部出身者が多い指導者層を補うため南部の人物を選ぶことになったという。しかし本人は、それまで国王が占めてきた地位に就くことをためらい、受けるか受けないか、意見を変え続ける日々が続いた。のちに首相となるジュリオ・アンドレオッティは、その様子を皮肉まじりに回想している。
こうして1946年7月1日に暫定国家元首に就任したが、1年足らずの1947年6月25日、健康状態を理由に突如辞任した。憲法制定議会はその清廉な人柄と、高い地位にしがみつかない潔さをかえって評価して、翌日ただちに再指名した。1948年1月1日に憲法が施行されると、経過規定によってそのまま初代大統領となったが、同年5月に再び健康状態を理由に辞任を表明し、次の選挙では候補者になることも固辞した。後任には自由党のルイジ・エイナウディが選ばれ、デ・ニコラは終身元老院議員となって政界にとどまり、1951年4月末から翌年7月末までは元老院議長を務めた。ピザが好きで、必ず窯の近くのテーブルに座ったと伝えられる。1959年10月1日、ナポリ近郊のトッレ・デル・グレーコで没した。
同じ年に亡くなった人物
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- ホセ・ラウレル (1959年没)
- エドマンド・グールディング (1959年没)
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同じ地域に関係する人物
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- フランチェスコ・ドゥランテ (1755年没)
- レイ・スティーヴンソン (2023年没)
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