伝記
ジョン・フォスター・ダレスは、1888年2月25日に、長老派教会の牧師アレン・メイシー・ダレスの息子としてワシントンD.C.で生まれたアメリカの政治家である。弟は後のCIA長官アレン・ウェルシュ・ダレスで、母方の祖父と叔父はともに国務長官を務めた。プリンストン大学を1908年に卒業し、ジョージ・ワシントン大学の大学院を経て弁護士となり、ニューヨークの法律事務所で国際法を専門にした。第一次世界大戦が始まると陸軍へ志願したが、弱視のために入隊を拒まれ、軍需物資の調達に従事した。1919年のパリ講和会議には、アメリカ代表団の法律顧問として参加し、ヴェルサイユ条約の戦争責任条項の作成に携わった。ドイツへの賠償を強硬に求めたが、後にドーズ案の作成にも関わった。敬虔な長老派信徒でもあり、1920年代から1930年代にかけて数多くの宗教会議に出席した。1935年には、ナチス・ドイツとの業務関係を全て解消した。
共和党の有力者として、1944年と1948年の大統領候補トマス・デューイの外交政策顧問を務めた。1945年にはサンフランシスコ会議に顧問として参加し、国連憲章前文の作成に関わった。原子爆弾の使用には強く反対し、国連の管理下で原子力を制御することを求める声明も起草したが、ベルリン封鎖や朝鮮戦争、ソ連の原爆開発を経て共産主義陣営の拡大を危惧するようになり、認識も変化していった。民主党の封じ込め政策に対する共和党の代替案として、巻き返し政策の策定を主導した。1949年には臨時の上院議員に任命されたが、同年11月の補欠選挙で敗れた。
1950年4月、トルーマン政権で国務長官顧問となり、対日講和を担当した。同年6月には韓国で北緯38度線を視察し、日本でマッカーサーや吉田茂首相と会談したが、その直後に朝鮮戦争が始まった。1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約をまとめ、同じ日に調印された日米安全保障条約の「生みの親」とされる。講和条約の署名国をめぐっては、韓国の参加を求める動きもあったが、7月19日に、署名国になれない旨を韓国大使へ通知した。
1953年1月にアイゼンハワーが大統領に就任すると国務長官に任命された。反共主義のスタンスを積極的に打ち出した冷戦時代の政治家で、インドシナでベトミンと戦うフランスへの支援を主張し、1954年7月のジュネーブ会議では、握手を求める周恩来を拒絶した。強力な核戦力を背景に核兵器の使用も辞さないかのような姿勢は「瀬戸際政策」とも呼ばれた。1953年8月には、弟のアレンのCIAとともにイランのモサッデク首相を失脚させ、グアテマラでは政権の転覆を図った。1954年には『タイム』のパーソン・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。1956年のスエズ運河国有化問題では、エジプトのナセルと敵対し、結果としてソ連が中東への影響力を獲得したため、政策は裏目に出たとされる。
1956年の第二次中東戦争が起きた頃、彼は大腸癌の手術を受けるために入院しており、この件に関する重要な決定には加われなかった。手術後に胃腸穿孔を起こし、1958年末にも大腸の病気で再び入院した。翌年に癌が再発し、放射線治療を受けながら公務を続けたが、健康の悪化から1959年4月15日に国務長官を辞任した。5月24日、ウォルター・リード陸軍病院で死去し、アーリントン国立墓地に埋葬された。ワシントン・ダレス国際空港に、その名が残る。
同じ年に亡くなった人物
- ボリス・エイヘンバウム (1959年没)
- エレーノ・ジ・フレイタス (1959年没)
- アルフレッド・リコニー (1959年没)
- ウィリアム・ハモンド・ライト (1959年没)
- ジャコブ=バート・ド・ラ・ファイユ (1959年没)
同じ地域に関係する人物
- ボブ・フォッシー (1987年没)
- ジョージ・マーシャル (1959年没)
- ジョン・カルフーン (1850年没)
- ザカリー・テイラー (1850年没)
- ロバート・M・ラフォレット・シニア (1925年没)