伝記
ヘンリー4世は、1366年4月3日、リンカンシャーのボリングブルック城で、エドワード3世の息子ジョン・オブ・ゴーントと、初代ランカスター公ヘンリー・オブ・グロスモントの娘ブランシュの長男として生まれた。生地にちなんでヘンリー・ボリングブルックとも呼ばれる。父ゴーントは、甥にあたるリチャード2世の治世の前半に大きな影響力を持った。継母キャサリン・スウィンフォードとの関係は良好だったが、その子であるボーフォート家の人々との関係は時期によって異なり、1406年以降はヘンリーおよびトマス・ボーフォートとの対立が問題になったという。ヘンリーは若いころから騎士としての訓練を受け、のちに馬上槍試合で成功を収めた。1381年の農民一揆では、リチャード2世らとともにロンドン塔に籠城し、反乱者が塔に押し入る中で危うく殺されかけたが、助けられたと伝えられる。
従兄リチャード2世とは、幼いころの遊び友達で、1377年にはともにガーター騎士団に加えられたが、関係は安定しなかった。1387年から1388年にかけて、訴追派貴族の一員としてリチャードに対抗し、無慈悲議会では国王の側近追放に加わった。それでもリチャードは罰せず、ヘンリーをダービー伯からヘレフォード公に昇進させた。ヘンリーは1390年から1392年にかけて、ドイツ騎士団のリトアニア遠征に加わっている。1380年に結婚したメアリー・ド・ブーンは1394年に世を去り、王妃にはならなかった。1398年、ノーフォーク公トマス・モウブレーとの争いを咎められてリチャードに追放され、1399年2月に父が死んでも、ランカスター公領は没収され相続できなかった。
同年5月にリチャードがアイルランドへ遠征している間に、ヘンリーは7月4日にイングランドへ上陸した。ノーサンバランド伯パーシー父子やウェストモーランド伯ネヴィルら北部貴族の協力を得て、8月にリチャードを捕らえ、9月30日、議会はリチャードの廃位とヘンリーの王位継承を議決して、ランカスター朝が始まった。リチャードは翌1400年2月に獄死した。ヘンリーは、ノルマン征服以来、母語がフランス語でなく英語である最初のイングランド王だったとされる。
しかし治世の初めから反乱が相次いだ。1400年1月にはリチャードの寵臣らによる暗殺計画が発覚して処刑され、同年にはウェールズのオワイン・グリンドゥールが挙兵して、長い戦いが始まった。パーシー父子が1402年にスコットランドのダグラス伯を捕虜にした際、ヘンリーが引き渡しと身代金を求めたことでパーシー家とも不和になり、1403年7月21日のシュルーズベリーの戦いでホットスパーを討ち取った。1405年の再度の反乱も王太子ヘンリーらの働きで鎮圧され、ノーサンバランド伯は1408年に敗死した。1403年にはブルターニュ公未亡人ジャンヌ・ド・ナヴァールと再婚したが、子はなかった。1406年にはスコットランド王の嗣子ジェームズを捕らえて人質としている。
1405年以後は体調を崩し、王太子が国政に関わるようになった。フランスへの介入をめぐって父子は対立し、1412年に王が主戦派の評議員を更迭したため一時仲が悪化したが、間もなく和解した。1413年3月20日、ヘンリーはウェストミンスター寺院で発作に襲われて死去し、遺言によりカンタベリー大聖堂に葬られ、王太子がヘンリー5世として即位した。
同じ年に亡くなった人物
- ジャラールッディーン (ジョチ家) (1413年)
- ミケーレ・ステーノ (1413年)
- ノリッジのジュリアン (1413年没)
- Musa Celebi (1413年)
- ナーシルッディーン・マフムード・シャー (トゥグルク朝) (1413年没)
同じ地域に関係する人物
- ウォーレン・デラルー (1889年没)
- ジョン・パーキンソン (植物学者) (1650年没)
- マイケル・ワイルディング (1979年没)
- ヨハンナ・キンケル (1858年没)
- ジョージ・ギルバート・スコット (1878年没)