伝記
チャンダルル・アリ・パシャは、1387年から1406年まで、オスマン帝国の大宰相を務めた人物である。チャンダルル家の出身で、同じく大宰相だった父カラ・ハリール・ハイレッディン・パシャの子にあたる。アリは、父と同じように、カーディー(裁判官)から軍事裁判官へと進み、1387年に父が亡くなった直後に大宰相になったとみられる。大宰相は、首席の大臣として行政を率いるだけでなく、軍の総司令官も兼ねていた。ムラト1世、バヤジット1世、そしてオスマン帝国の空位時代にはスレイマン・チェレビに仕えた。
1387年から翌年にかけて、アリはムラト1世に従って、アナトリア中部のカラマン侯国との戦いに加わった。カラマンの君主アラエッディンは和平を申し出たが、アリは完全な服従を得るまで攻め続けるよう、スルタンに進言した。翌1388年から1389年には、ブルガリアの皇帝イヴァン・シシュマンに対する作戦を指揮した。軍はプロヴァディア、ピロト、シュメンなどの要塞と、ブルガリアの首都ヴェリコ・タルノヴォを落とし、シシュマンはオスマン帝国に降伏するしかなくなった。そのあとアリは軍勢を率いて、1389年6月20日にセルビアの君主ラザルと戦うコソヴォの戦いで、ムラト1世と合流した。オスマン軍は勝ったが、スルタンは殺され、息子のバヤジット1世が跡を継いだ。
アリはバヤジットに従って、ギリシアやボスニアでの戦いに加わった。1391年には、バヤジットがビザンツの首都コンスタンティノポリスへの断続的な封鎖と包囲を始めた。この包囲は1402年まで続いた。アリは、外交の道を開いておくことを主張し、1391年か1396年に、町にモスクとトルコ人の居住区を設け、その居住区に独自の裁判官を置くのと引き換えに、包囲を一時的に解く合意をまとめた。1396年のニコポリスの戦いでは、ハンガリー王ジギスムントが率いる十字軍を破っている。
1402年7月26日、アンカラの戦いでバヤジット1世はティムールに敗れて捕らえられた。アリは、バヤジットの長男スレイマン・チェレビが捕らえられるのを防ぎ、オスマン帝国の都ブルサ、さらにヨーロッパ側の都エディルネへ送り届けた。その後も、オスマン帝国の空位時代の内戦の初期に、スレイマンの大宰相を務め、1403年初めにキリスト教勢力とのガリポリ条約を結んだとされる。この条約によって、バルカンの征服地の大半が保たれた。1403年から1404年にかけて、スレイマンが弟のメフメト・チェレビ、のちのメフメト1世を攻めてアナトリアへ進んだとき、アリは、メフメトからの偽の手紙を作って、アンカラの守備隊を降伏させたといわれる。1406年12月18日、アンカラで亡くなり、父が建て始め、アリが完成させたイズニクの緑のモスクに葬られた。有能な大臣を失ったスレイマンは、1410年に没落した。
アリは、カーディーの責務を成文化し、カーディーが固定の俸給ではなく、仕事に応じた手数料を受け取るようにした。宮廷の小姓の組織も創設した。これは、のちに帝国の軍人と官僚の中核となった。ブルサに小さなモスクと修道場を建て、その地区には彼の名がつけられた。
同じ年に亡くなった人物
- エヴドキヤ・ドミトリエヴナ (1407年没)
- マリア・デ・ルナ (1407年)
- ロペス・デ・アヤラ (1407年)
- ヴィルヘルム1世 (マイセン辺境伯) (1407年没)
- ギオルギ7世 (ジョージア王) (1407年没)
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